あらえびすブログ

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昨日何気に見たドリームワークスのDVDは、まさにこの活動が目指すものであった。


昨夜見たドリームワークスのアニメ映画は的を得ていました。

題名は、「クルードさんちの始めての冒険」でした。

いつもこのような人形劇的なアニメに引き付けられるのですが、アニメだから描ける世界が見事に表現されています。

ジブリのみおりの森も良かったですが、さすがにスピリチュアルアーテイストで製作する、ドリームワークスならではの世界でした。

原始人が洞窟から出て、外の世界は危険だという、作られた概念から飛び出て旧態依然の価値の原始人のお父さんが、徐々に自分の頭で考えるようになり、新しく世界に入るには新しいルールを作れば良いのだと、開かれていくドラマです。

僕は、この与えられたルール以外のルールを、敵を作らずに構築できないかそれを十二年考え、三年実行してやっと今のギリギリ自転車操業まで、どうにかたどり着けたので、この映画は妻や山ちゃんにとっても勿論僕にとっても、まるで自分達の映画のように感じながら、このまま進んで良いんだとの示唆も与えてくれるのです。

そう、新しいルールが素敵だってわかる「場」さえ見せれれば、支配しようとする側も、家畜化に慣れきった怖がりさんも、イデオロギーで革命しようとしがちな世代も皆以外に簡単に気付けるのです。

だからアニメのように、先ずはドラマチックパーソナリティーが重要になります。

生まれついてのドラマチックパーソナリティーの自分を活かしに活かして、登場人物から、木や野性動物、ペット、昆虫、風、雨や雪、お山全てを同一線上で、ドラマチックパーソナリティーに仕上げてしまうのです。

先ずは日本中に住む命全てがドラマチックパーソナリティーの宝庫にしてしまう。

そう、一人のカリスマによる、ヒーロードラマはもう古いし、ヒューマンドラマももう沢山。

今の政治もマスコミも殆どがヒューマンのみの地球での都合のお話。

デイズニイーランドに行っても、主役はキャラクターで、所詮僕らはお客さん。

もう僕らは主体と客体の枠を越えた場が生まれでることに、待望している。

もうそこしかないって、そのモデルさえあれば、これだこれだこれが欲しかったのよと、気付けるところまで人類は来ています。

そこに難しい話は実は要らない。

それを構築するにはとっても必要な、歴史や陰謀や哲学やスピリチュアルですが、大衆には不要です。

大衆のなかには自分で考える場が与えられていないだけ。

だから、与えられたゲームに没頭する。

けれども、ゲームと、ルールを考えたらあなた自身のゲームになるよっていう、ゲームは今のところない。

だから、ゲームにも、作り手とやる人という二極化が前提条件にある。

しかし新しい経済も、何が違うかというと、二極化のルールがない。

ルールさえも楽しみ方も、自由に自分で考える。

だからマネーだけが力を持つこともないし、マネーを否定することもないし、金本位に傾くこともない。

それは、全てアプリになるだけ。

教育も同じく、これが正解ですという教育方は消えていく。

その対局として、イデオロギーの思考から出た、フリーすくも消えていく。

日本でシュタイナー教育が上手く稼働しないのは、その卒業生を受け入れれる成熟した新しい大人の社会がないからである。

僕の息子もシュタイナーに行っているけれども、問題はオルタナティブな学校に行かすだけでは、子供が行き詰まるということに気づいて、ソロソロその子達が自由に思考を現実に伸ばして実践できる社会を作って行く事に向かう大人だと思うのです。

その意味では、オルタナティブな教育という概念も逆でしたという事になる。

先ずは大人が檻から出て、何だ出たって又入場も出きる檻だったいう出方をすればよいのであって、突然囲いを撤去して野生に戻れと戸塚ヨットスクールのような事も実は必要ない。

武術や武道も多くは、間違った選民思考に傾ける材料に使ったのだから。

根性もいらないし、キットそれを頑張るとか根性があるないとかという言葉に置き換える事が必要なくなる。

頑張るが楽しいに変換する。

根性が根っこからやりたいことだからやるという自然体を指す事になる。

根性がないではなくて、根性が出せるものに出逢っていないとなる。

即ち言語もルールが変われば、翻訳が変わるのです。

今の若い子素直です。

根性素直に自然体で出せるほど、未来に光輝く世界に出逢っていない。

だからそれを、小さくても見せれれば、教育は自ずとオルタナティブになってしまう。

だから教育機関を新設することという時代はすでに過ぎ去ったのです。

どこかに集まって、陰謀説を聞くのももう過去の産物。

何処かに集まって、絆作る一過性のイベントも終わりです。

フリーエネルギーと一緒で、フリーソーシャルを作ろう、必要、こうならできるから、下手くそでも先ずは作ったよにならにゃ、ソロソロいかんのです。

金がなきゃ出来ないと、いつまでも投資家探ししていても、いつできるのそのフリーエネルギーがある街がになる。

だから、フリーが当たり前であり、本当のフリーも見本は、先生は誰と言うなら、自然界ですから先ずは自然界から体を通してフリーを学ぶ。

そのうちにアイデアが出てくるけれども、里山に居着いてはいけない。

僕らはハイブリッドだって認識をなくすから。

縄文が自然側なら、弥生は都市側。

そのハイブリッドを認識して、いよいよ実現して次の世代に見せる時が来ていると思うのです。

それがマネー資本主義と里山資本主義の融合であり、陰陽の融合である。

オセロゲームで言えば、先ず盤に制限がないことが重要。

即ち国境がない。

これが自由の本当の意味です。

好き勝手に檻の中でメチャクチャに生きるのではなく、場に制限がない目線になれていく。

言い換えれば、モンゴルの目線。

それが山に遮られても観れる能力。

なぜなら、山を潰して、ビルを建てればそこには自然の風が吹かない。

それだけで、未来のオセロゲームには、ならない。

常にひっくり返し続けている事がゲームの勝利になるのですから、ルールが大幅に進歩したのです。

大体いつも白黒のバランスが崩れないで、しかしだからこそ場が拡大していく。


そこには全て命が駒として参加しているから、お山はいつも繁盛し続ける、だからこ経済も永続になる。

その本当のグローバルを、いよいよ目指さなくてはならない。

それは、今でしょう。