オオカミの護符という素晴らしい本の前書きに、あらえびすを理解できるキーが全てありました。
離れて暮らす娘二人には、年に四回は逢えるようにこの忙しい隙間をぬって、父と娘の時間を大事につくっています。
今回の二泊三日の岡山もその時間。
上の娘の体操教室で練習と、下の娘の保育園卒業劇シンデレラを見る事が外側の目的。
そして、クリスマスプレゼント決めて、一緒に食事して、一緒に近場のお風呂に行ってと生活の中に溶け込んで、娘二人の成長を感じる事が一番の目的。
僕の地球の未来に全て捧げるサクリファイスに耐えられなく、離婚する結果になったのは四回。
そのうちで子供がいるのが三回。
計四人。
皆素晴らしい育ち方をしています。
もう此れは連れて逃げて出ていかれた全ての元妻に感謝しかない。
そして、出ていかれなかったら、ここまで日本中動いてはいられなかった。
新たな出入り自由な共同体的な、壁がなく解き放された『アラエビス』の魂家族的な空間は、この世に実現していなかった。
世代的に、密なる核家族に憧れてきた世代が最後の離婚の妻に見た、現代の二項対立思考の先に行けない、致し方がない比べて得た価値観。
高度経済成長の時代、お父さんは飲み会接待ゴルフなどで家にいなかった。
だから、仕事スタイルによる問題が、薄い関係の家族を作ったと見てしまっていました。
僕も50名近い従業員との密なる大家族でしたから、違う意味で核家族に憧れを抱いていた。
しかしいざ核家族に向き合うと、様々な自我の対決が家庭に蔓延。
後は極力深い話を持ち込まないで、触れないで持たせる似非なか家族を作る時代だったのかと。
勿論その中でうまく素晴らしい家族を作った方もいるので、今生世間で言う完璧な家族という形にはまりきらなかった人生の方向けに、あえて『時代』という言葉を使わせて頂きました。
似非の経験者は、より本質な家族を問い出す。
そして人類という不可思議な生き物を探求したくなり、その不可思議な生き物が地球に住まう時代を超越してそもそも存在した、人類社会を知りたくなるモノ。
人生はよーく出来ていて、このマイナスを人生の問いという、カミハカライプレゼントにしだすと、全くもってこの世にマイナスは存在していない事に気づき出す。
僕の場合。それが地球の自然災害的な畏怖の念にまで、カミハカライを感じるようになりだした。
たとえ、人工地震や人工津波や人工台風とて、そもそもの地震や津浪がどんなマイナスを容認しながらも、それどころではない大きなプラスをもたらしてくれている。
津波後には、あり得ないほどのプランクトンが復活。
雷だって、山頂付近の広葉樹の老木を倒して、そこに宇宙規模の電気energyを与えて、広葉樹から菌類にてんせいさせる。
皆さまに配る、天然水も同じ。
出来る限り、山菜きのこ、野生の肉に拘るのも同じ。
そして、熊楠のような天才で始めて理解した、人類も含めた地球の命の連鎖調和の形=南方マンダラ。
そして、小さくてもそのような地球と回り続けれる、連鎖調和で形式を変えながらも役割を変えながらも全体的には成長しないが、様々な役割を演じるからこそ内部が充実して成長していく形の唯物化。
と同時に、今のUターンIターン組が心を閉ざしてしまう、旧態依然の部落からの脱却という部分のリニューアルという両面の同時変革を、綱渡り間脳で創作するこれこそが、オオカミの護符が真に求めている事なのだと感じるのです。