あらえびすブログ

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ダンスや音楽だけの狭い意味ではないアートな思考がネオ縄文を実現。國友慎之介の夢をアラエビスは応援

シュタイナーが言う、偽善と悪意の間の狭間を見いだすネオ縄文の思考の位置が、アートです。

ヒップホップに古事記を取り込み、ヒップホップ世界大会を来年目指す、スガジャズダンススタジオの國友慎之介ちゃんの大いなる夢のチャレンジを、アラエビスは全面的にバックアップします。

現実的には、アラエビスが試みる市場に載せない伏流水や、大神魅素、ウルフやファルコンによる害獣調整やファルコンやウルフも参加する縄文アートそれを支えるウルフあしなが叔父さん基金、果ては耕作放棄地での絶滅危惧種たにしマツブが生み出すマネーによるネオ縄文型無料が成り立つ福祉の実現、そして今回手始めにスガジャズダンスが目指すヒップホップ系に集う方々のネオ縄文思考への目覚めを則すという志高いアートを支援するネオ縄文アート基金をアラエビスの活動にいよいよ足して参ります。

支配者である彼らも、広報担当でジョージルーカスやらレディーガガ始めハリウッドから音楽業界を使い、我々に沢山の思考への影響を与える事で彼らの支配に好都合な、想像を民が則すようにコントロールするわけですから、彼らの支配する土壌でオセロゲームをひっくり返しす為には、此方もニールヤングなみの影響力であるアートを使い、彼らのデザイン的な予定調和芸能に対向する、即興的なアートな連鎖調和芸術で対向しなくてはなりません。

細やかですが、新潟のノイズムを支援しはじめたのも、それが理由でした。

僕らは僕らで、完全即興のネオ縄文アートを、団体や分野ではない個が集まり束になり「jyoumon band araebisu(百升芸術バンドあらえびす)」として、今回の高野山奉納を皮切りに様々な場で、予定調和では創れない一体感を実現して参ります。

その為にも、更に新しいアートにチャレンジする団体を支援しながら育って頂き、その方々の土俵では限界がある更なるアバンギャルドな「自由へのアート」の創作時には、個としての想いで集まり、観客がいないアートを実現します。

即ち観客は、ミュージシャンかダンサーとしてごくごくnaturalに加わり、一体感を全身に感じる本物の「ネオ縄文 環の舞」です。

今回僕がプロデュースした、高野山での「ネオ縄文 自由へのアート vol1 in 高野山」は、まさにそのチャレンジでありました。

見事にアーティストが三者三様に、我を捨てずとも融合できる、だからこそ連鎖調和の螺旋波動が周りの観客をミュージシャンにしてしまいました。

まさにパフォーマンーと観客の境を無くしました。

その道中に、慎之介ちゃんから、ヒップホップ世界大会の話と旅費や滞在費の支援先が無いかを問われ、まさにウルフを三匹高価でも飼うと決めた時のように、まさに天からの采配としてこのネオ縄文アートプロデューサーに降ってきた、まさに負から受け入れる愛のサポーター虹の戦士集団に、アラエビスサポーターを仕上げる絶好の機会だから、又々お前がその役目を背負うように、任命されたなと感じました。

まだまだ沢山は支援出来ないし、所謂企業や国の補助金のような一方通行の支援ではなく、シュタイナーが言われる肉体、魂、霊が溶け合う支援の形の創造でもあると、強く感じました。

今、ここでの委員長は其々に存在しても、リーダーや指導しようとする有識者がいないアラエビスの共同生活の実践も、まさに新しいネオ縄文時代の人間関係の実践創造であります。

今いる僕も含めた10名のstaffは、まさにこのネオ縄文大家族の基礎を作り始めています。

スガジャズも指導者が共同生活を実践しているからこその、高みにいける可能性をお母さまの國友スガさんが直観で感じられていたはずと、感じていました。

あらえびすは、國友慎之介ちゃんの未開のパイオニアな世界とノイズムを先ずは支援して参ります。


この方のシュタイナー関係のblogは、スゴくわかりやすい。



人間の本質
皆さん、こんにちは。
 長い間ご無沙汰してしまいました。夫が他界して一年が過ぎました。この一年は様々な思いが襲いかかってくる一年でした。夫がいなくなった寂しさや孤独感、悲しみといった感情から必死で逃げようとしていた私です。でも、逃げれば逃げるほどそういった感情は追いかけてくるのです。そんな時、ミカエルカレッジで共に学んだ友人がこんな詩をメールで送ってくれました。

         ゲストハウス
   人間という存在はみなゲストハウス。
   毎朝、新しい客がやってくる。
   喜び、憂うつ、いやしさ、そして一瞬の気づきも、
   思いがけない訪問者としてやってくる。
   訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい。
   たとえ、それが悲しみの一団だとしても、
   できる限り立派なもてなしをしなさい。
   たとえ、それが家具のない家を
   荒々しく駆け抜けたとしても。
   もしかすると訪問者はあなたの気分を一新し、
   新しい喜びが
   入ってこられるようにしてくれるかもしれない。
   暗い気持ちや、ごまかし、ときには悪魔がやってきても、
   扉のところで笑いながら出迎え中に招き入れなさい。
   どんなものがやってきても感謝しなさい。
   どれもはるか彼方から案内人として、
   あなたの人生へと送られてきたのだから。

 この詩を読んだとき涙が出て止まりませんでした。
逃げるのではなく自分の気持ちと向き合わなければ今の状態から抜け出せないと思いました。そこで、年末は一人で掃除をしながら様々なことを考えました。最初は泣きながらの掃除でしたが…掃除力ってすごいですね。家の中が少しずつ、きれいに片付いていくごとに自分の気持ちもごちゃごちゃでわからなかったものが少しずつ整理がついてきました。

 そんな時、はっと気づいたのです。
私が流している涙は夫のことを想って流しているのではないということに。一人ぼっちで、寂しく、悲しい思いをしている自分がかわいそうで惨めで泣いていたのです。結局は自分のことばかり考えていたのですね。それと同時に私は今まで夫に守り支えてもらっていたのだということにも気づかされました。

 自分の気持ちと向き合うとは、寂しい、つらい、悲しいと思っている自分とはちがうもう一人の自分がいて、そういった状況を客観的に眺めることができるということなんですね。
それからは、何故かシュタイナーの著書を掃除の合間に読むようになりました。
すると、今まで、難しい、わからない、興味なしと思っていた事柄が「ふーん、そういうことなんだ。」と思える箇所が増えていることにびっくり。
そして、私が今、まだ生かされているということは、この世でしっかり自立した生き方を学びなさいということなのだと思えるようになったのです。

 自立とは、無私の心を養うこと。

 1月6日の朝日新聞に「利益追わぬ投資を」という見出しでバングラディッシュの経済学者ムハマド・ユヌス氏の取り組みの記事が載っていました。彼は、今、世界中を吹き荒れている金融危機を乗り越えるために、社会問題に取り組む新しい企業モデルを提唱しています。氏は、「私たちは資本主義を誤って解釈している。ビジネスとは金儲けのことで、利益の最大化がその使命という。この解釈は人間を金儲けの機械と見なす。」と述べ、「すべての人間には利己的な面と無私で献身的な面がある。私たちは利己的な部分だけに基づいて、ビジネスの世界を作った。無私の部分も市場に持ち込めば資本主義は成功する。」というのです。
 氏の提唱する社会的企業とは、投資家は特定の社会問題の取り組みに投資します。社会的企業は損失も配当もありません。社会に貢献する目的を持つ会社なのです。氏は、具体的に乳製品や飲料水の会社を設立されていて、目的はお金を設けることではなく、安全な水の提供や栄養不足の子どもたちの解消にあるのです。

 氏の「私たち人間には、利己的な面と無私の面がある。」といわれた言葉が印象的です。氏の提唱する新しい企業は、人間のエゴイズムをどこまで克服できるかが成功への鍵ですね。でも、世の中には自分のことはさておいて人のために一生懸命働いておられる方がたくさんいます。何が彼らを動かすのでしょうか。

 シュタイナーはこのような人間のあり方をどのように洞察しているのでしょう。シュタイナーの代表的な著書「神智学」をもう一度読んでみました。

 はじめに、「神智学」とはどういうものか。シュタイナーは
 人間が見上げることができる最高の存在を人間は神的なものと呼びます。そして、人間は何らかの方法でこのような神的なものとつながるという観点から、自分自身の最高の使命を考えなくてはなりません。
そのために、自己の本質と使命を人間に対して明らかにする感覚的なものを超越した知恵を「神的な知恵」、すなわち「神智学」と呼ぶことができます。と述べています。

人間には3つの領域があるというのです。
 第一に私たちは、触れたり、嗅いだり、味わったり、見たり、聞いたりして、つまり体を使って知覚することが出来る世界に属しています。

 第二に私たちは、感覚を通して知覚したものに美しいとか醜いとかいう感情を持ちます。私のように夫と死別するような事柄に出会うと、悲しい、つらい、寂しいという感情が押し寄せてきます。

 でも人間はそれだけではないのですね。色々な事物に出くわしたら、そのことについて考えます。シュタイナーはこの考えることのできる部分を人間の自我あるいは霊、精神と呼んでいます。

 そしてこの自我の中にも二つの領域があるのです。
 一つは、感情の奴隷になっている自我です。快感、不快感、あるいは衝動や本能、情熱などの感情に仕える自我です。感情とはその人個人のものです。個人的なものですから利己的になるのです。幼い子どもの自我もこのようなありかたをしていますね。シュタイナーは、物質主義的な文化の本質は思考が感情に仕えるという点にあると述べておられます。思考力の大部分はこの感情の欲求を満たすために使われていると。

 もう一つの自我は、感情に振り回されない、感情を乗り越えた思考です。自我が感情を支配するのです。感情を乗り越えて思考するとき、人間には物事の本質、真理、善が明かされるのだといいます。そして、人間は明らかになった真理や善に従って生きることも出来るのですと。これこそが私たちが目指すべき方向であり生きる意味なのだとシュタイナーは言います。