新潟から地震も取り上げられ、御用マスコミでも、見事なサインをだし始めました。
これが陰謀的な仕掛けでも、天変地異でも、いかに僕らが何を感じて生きるか?生きなおすかが問われられていると、他者のせいにしないで自分が地球の問いに対してどうするかで、殆どの次の一歩が決まる。
もう太平洋も日本海も来るのだから、自然摂理をそのまま受け取り、逃げないで共に生きる覚悟のみだけだと思うのです。
そして、地球よりの経済を、地球よりの国関係を構築する。
選民主義でなくて、やはり僕ら日本にし出来ない事のように、最近海外の動向は感じさせて下さる。
有りがたい事です。
その生み出す苦しみが、アジア共同体という今までの最大の市場を、いかせるか否かを決定する。
そしてその苦しみから、新しいマネーの創造が実は始まっている。
だから、今が一番大事なんですな。
実は、常に今ですね。
些細な事でも今が結果世界を創る。
だから、全てを自らしっかり意識して自らの素直な良心の決定で、今能動的に生きる事の積み重ねが、唯一大きな目標に行き着く。
対外的な社交辞令も、用を足さない。
僕は何処まで行っても個を貫く。
絶対に、団体の企業の官公の下でから始めるナニカからの、スタートは一切しないし、したくない。
自分が個で弱ちくても立っているしか、個で立とうとしている人とは出逢えないから。
そして、それこそが今始めて地球で起きようとしている、新たな個でしか繋がらない、oneとグローバルの融合だから。
それこそが、集団こそが創るoneな世界観。
新しいマネーは、シェアリングから生まれて欲しい。
ブツブツ交換の良さは、相手の今が感じられる事。
刺身でも同じだし、家を建てる事でも同じ。
問題はその人が感じられるか否か。
これがマネーになったときから、抜け落ちる。
信頼とはナニカ?
果たして信頼こそが資本なるときが来るのか。
ペットを純粋に飼おうとしてるときに、一番現れるかもですね。
信頼は片側では起きないし、信頼を装おう事は無理である。
僕にとって一番の信頼が、里山である。
だから、里山が毎年毎年生み出してくれる様々、数量の違いはあっても決して変わらずに裏切らない。
今起きている、土砂崩れは台風のせいではない。
人が山を裏切ったから。
山との信頼を一方的に裏切ったから。
経済優先で、里山資本よりもマネー資本を優先させたから。
ここに昔から張り付いていた人達は、お山はいつも変わらないと、言う。
僕にとっては、山形ではなく、里山こそが信頼資本なんです。
だってこの空気、山菜、ジビエ、皆様にお配りしている伏流水、このエコロジアは山にしか作れない。
それを、大々的に作ろうと農業を推し進めた。
そして、ただの区画で農地を仕切る。
一見農地でも北海道にある小高い丘には、大きな広葉樹を残すが、それが水を引っ張るから。
それだけでも引っ張るのだから、この人が殆ど入らない忘れ去られた、黒伏山の下の里山は恐ろしい程の水を蓄えている。
それが、僕らを潤す、
僕らの感性を枯らさない。
そこから、一回自分の当たり前や、人類の当たり前を捨てて、自然界が生み出してくれた感性で全く新しい仕組みを創造して、怖がらずに入り込み
実践するしかない。
現場からしか、生まれない。
残念ながら創造とは、直面して与えられる。
僕もそうでしたが、住む前に用意したプランは見事に、壊される、
今そこにあるものを発展させるしかない。
無いものから創ろうとしたから、ここまで紙切れだけの世界を生み出した。
有るものから描く。
そこには取り合えず、美味しい空気があり、安心で涌き出る水がある。
そこに住まわせていただく変わりに、自分を媒体にして、お山と他者に与えられるモノを見いだす。
その時に里山資本主義が見え出す。
マネー資本主義に生きながら里山を大切にしようと、里山資本主義生きるまるっきり逆な事。
例えば津波で財産失い、里に降りる上での生きれる可能性を選ぶか、お山の境界線に生きる可能性を観るかその違いである。