いよいよ九月九日 世界の響命を阻む 戦争は何処に進むのか
今日は福島で除染活動を、人生最後の奉仕と活動されている方が、お友達と水源地観察におみえになられます。
土日は東京で、家やお仕事のない方に、炊き出しをされたりと、退職後手弁当で頭の下がる活動をされておられます。
僕もこの活動に、全てを賭けてから、本当に素晴らしい出逢いに導かれ助けられ、どうにかこうにか自然界の動きと共に寄り添える人の進化を目指して、十月のいよいよのスタートまで、駒を進めさせて、貰えました。
そのなかで、何時も想うのが、自分の心の在り方です。
様々なご協力者の意見を、まずは自分をZERO化してお聞きします。
そこで始めて、相手のお立場から見える、この活動のスキを「なるほど」と、先ずは腑に落とします。
個人的にご協力してくれている、サポーターの皆様、そして組合員としてご協力してくれている方々、地元で基礎をしっかりと固めてくれる方々、そして全ての場にいらっしゃる反対派の意見や懐疑的な意見、全ての同行から、如何に誤解されないように足固めをするかが、とても重要になりだしました。
おばちゃんでも解る言葉に、あえて想いを表面化せずに包めた時に、この水源地を育て続ける活動が本格的に動く事は、確信しております。
これも、僕の中の奥の院に、余りにも膨大な想いや知恵があるからこその、良さでもあるのですが、これが悪い方向に行くと、個人の思い過ごしによる、マスターベーションになりかねない。
この時に、例えばオニギリを、思うのです。
巨大化した人類の思考パターンが、巨大なオニギリを手にしている。
中にある具を、鰹節かな、梅干しかな、鮭かなと、期待しながら食べ進む。
食べ進むうちに、その気配が感じられてきて、それぞれ違うモノを期待していた人も食い進めるモノを、作り上げていかなくては、この《森と泉の縄文トラスト》は、結果を出せないほどの大きな事業です。
けれども、オニギリの中心の奥の院から、自然に染みだして来るものでなくてはならない。
自然に染みだしてくるのは、自分の資質の熟成度合いである。
まだまだ、感じ取らせれない、シュチュエーションが起きてくるのは、全てが僕の責任である。
ここまでは、僕が直接想いや現状をお伝えして、どうにかここまでのベースを作り上げたのですが、本気で山と泉を縄文的にトラストするためには、ドンドン僕と言う存在を僕自身が消し去っていかなくてはならない。
けれども、同時に僕と言う気配が完全に消えてしまうと、現在の公共事業のような、問題が同時に現れても来る。
養老や教育、障害者支援も、この伏流水の目指す売らない水と同じく、売らない老後や教育になっていくべきであり、その為にも越えなくてはならない思考のチェンジが相当に山積みであるのです。
そして、その作業の先に、それが成り立つ仕組みが、生み出されてくる。
今、生きるための権利と唱われていたことが危ういと言う問題の根底にある仕組みは、全てがマネー資本主義の上に作られているという問題です。
河川のトラストも、コンクリートで何時までも行われ、結果更にナラガレが進んでしまい、水は渦を描かないことで、電位を失い、様々な有害物質を除去出来ない水になってしまっている事の根底が、このマネー資本主義というベースによって起きている。
しかし、このままでは、日本の水源も他国同様に、危ういことだけは事実です。
そこから、更に病気が蔓延して、更に科学薬品に頼る。
結果人間の排出物から、海が汚れていく。
僕らは、口にするものにも、責任を持つ時期が来てしまっている。
言い換えれば、排泄物にも責任を持つ、だから取り入れるものを選ぶという、自分と言う体のZERO化循環システムを、持っていなくてはいけない時代に直面したのでしょう。
これは、大変な事です。
そこにシステムが構築されるまでは、矛盾だらけ。
しかし、《矛盾したモノを矛盾したまま矛盾なく取り扱う》という、武術の基本思考が証明するように、自然界は僕らの思考では矛盾になってしまうのに、見事なバランスを層の違いで作り上げる完成形を、記憶の根っこにしっかりと持っている。
里山で手を入れた山は、炭焼きで広葉樹の枝打ちをしなくなったが為に、老枝に虫が付き枯れていく。
余りにも流通が進んだ事で、虫さえもが菌さえもが移動している。
けれども原生林では、ナラガレ等は本来ないのです。
けれども人が入らない自然等、地球上には存在しない。
それは、遥か昔ほど、自然のなかに入り込み、その恩恵で生きてきた。
その人の移動に虫も菌さえも共についてきた。
勿論それで、抗体性のない病が蔓延して、絶滅した少数民族も沢山いた。
と同時に、それ以前は、自然界の驚異のなかで、移動した民の軌跡である《グレートジャーニー》は、温度差をものともせずに移動した事で、虫や菌は除去されていったのでしょう。
人の体の中での除去と同じ仕組みを、地球と言う生命も持っている。
見た目は違っても、構造は同じ。
勿論今後人は、今のような自由すぎる移動を自制しなくてはならない時期が、暫く訪れる事は間違いないし、地球は僕らから見たら自然界の異変で実は、地球の生命の移動さえも、全体調整していると感じるのです。
それだけ、人口は少ないという良さが好をそうしていたとしても、気の遠くなるような距離を移動していた人類が、この自然界に入り込むときに得た生きた知恵や様々な経験が、畏敬の念と畏怖の念という矛盾した両面を持ち続けろと、神話や童話に託して、伝えようとしたのだと思うのです。
道徳的で好きな言葉では説明できないが、山に入り込む、人の心のエネルギーが変わってしまったのだと思うのです。
畏敬の念や畏怖の念は、唯一自然界と話す為に人類に与えられた、大きな大きな言語であったと思うのです。
アートテンテクノロジーは、それを見事に証明し始めていると、僕は感じています。
エネルギーを、殺すも生かすも、人次第である。
人類に与えられた五芒星の破壊と再生のエネルギーが、ソロソロ六芒星の完全バランスを崩さない場を通して生み出される時代に入っていかなくてはならないでしょう。
自然界は、見事に、六芒星の中から五芒星のエネルギーで増殖しています。
我々人類だけが未だ、六芒星の安定と、五芒星の破壊と創造を、繋ぎ会わせることが出来ないでいます。
僕は、それが己の中で出来上がるまで、対話を繰り返し続けて行きたい。
自然界と人類が本当に手を取り合って、命を響き合わす時を夢見て。
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