今日は旧友が金沢から。突然大もての男水
美味しい空気。
美味しい水。
美味しい景観。
美味しい生き物。
美味しい人たち。
全てが、お山のエネルギーで、美味しさに満ちあふれている。
昨夜の、NHKの家族に乾杯。
北海道の夕張。
そこでの、保育園。
素晴らしかった。
我らは山の子、雪にも負けない、元気な子、お山が育ててくれている♪
のような園歌が、素晴らしかった。
アートテンテクノロジーのお陰で、お知り合いになられた、木村さんも、雪月花のお母さんも、みんなこの地に引っ越したいと、本心から言ってくれる。
それほどに、ここの六芒星、蓮の花の上に暮らしているようなエネルギーを、皆さんが大好きになってくれる。
肩書きや人間を忘れ、人として自然体で生きれるこの地やこの家は、尻上がりに皆を惹き付け始めている。
森と水源地の縄文トラストという、未来型里山志本主義が、ピュアウオーターの上に一輪の大きなロータスを咲かし始めている。
《コミューンを創る!》ような肩肘張った目標も、好みの違いも、趣味の違いも、知識の伝導もとりあえず片隅において、夢中にあるいは仕方がなく特化したモノでワザワザ自分を表現しなくなる、この六芒星という場のバランスの素晴らしさを、皆様のお陰で最近は体で、わかり始めている。
美味しい、気持ちいい、満たされているは、本当は単純なのに、理由を求めるが先にたってしまっている。
長野アートテンテクノロジーの長田ファームさんを訪れた、R社のS社長も《本当に旨い!》の感動の連絡があった。
おっしゃっていたのが、うんちく説明抜きで、喰って旨いが直ぐに共有出来るものは、今ほとんどない。
けれども、ここにあったと。
最近、僕の悪影響(笑)で、水フェチらしい。
この水フェチは、本当に奥が深い。
旨い水は、音楽を聞かすだけで、クラスターが変わる。
それはワザワザ、モーツァルトやバッハである必要はない。
自然界に満ち溢れている、音こそが先にある。
この家でかけたくなる音楽は、相当にレベルが高い。
自然界の音と響命出来なくては、存在できないからである。
今の音楽は、雑音を消すための、音楽が殆どである。
旨い絵画も、そうそうない。
S社長がお持ちの、僕の大好きな《能と見えない世界との響命》を描いた作品が、いつも僕の脳裏に景色として、そんざいしている。
この絵画を記憶している脳で、水源地を見ているときに、見事に二つの画が響命しあい、躍り手が動き始める。
その動きを、心尽くして、瞑想していると、六芒星と五芒星の見事なコラボが始まる。
その絵の中に、受けとして参加している錯覚を起こす。
男水の水源地も、見とれてしまうかたが大半で、なんの説明も要らない。
その景色と一体に、溶け込んでしまう。
自分が素粒子レベルの細胞感覚全体で、皮膚からの、情報と一体になっている。
だから帰ってくると、皆が仲良しになっている。
此れも旨い景色のなかに、素粒子で広がる伏流水を含んだ空気が、体の中の素粒子と響命しあうからでしょう。
美味しい食材も、その中の素粒子と自分の素粒子が、細胞レベルで響命しあう。
この心の底からの素粒子レベルでの一致感は、強力な自然界に限りなく存在する素粒子を、共に介したときに、やっと人間同士に絆が生まれる。
この絆は、人間同士の主義主張の一致で生まれる絆とは、全く違う。
生き物なら、必ず共感出来る、底の限りない広さを持っている優しさに包まれる。
そんな人を繋ぎあわせれるお水に、僕は出逢えたこと、心から感謝している。
対立を生む脳は、今休息を必要としている。
一口、口に入れたときの感動で、繋がりたい。
一目見たときの感動で、繋がりたい。
素粒子レベルの細胞が、喜び響命しあう事が、エネルギーの違いを示している。
里山志本主義を支えるのは、このエネルギーの充満感覚。
家に入った時の気持ちよさも、このエネルギーが充満している。
さて今日訪れる旧友は、どのようにこのエネルギーの充満を感じ取ってくれるのか、とても楽しみである。
細胞が全身このエネルギーで満ちていくときに、人は無口になる。
感動から溢れ出たウンチクは、それさえも美しい言葉になっていく。
宮沢賢治は、このエネルギーを、捉えていた。
全身で。
誰もが詩人になれる。
そんな場が、人を変えてくれる。
まもなく、大好きな冬がやって来る。
ここの冬はクラスターが、空気に溶け込む
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