あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

昨日は、菅家先生の月並み祭に参加した後に、新宿経由で大宮から新幹線でしたが、北与野で人身事故。

一時間、駅と駅の間で停車。

どうにか、無事帰りました。

もう、魂で生きるに皆目覚めないと、先行きに不安を感じて、このような事から人間が新しいステージに行けません。

月並み祭で、菅家先生もおしゃられていましたが、ドンドン魂でいきると、人生が動いて時がアットいうまにたってしまう。

四月は更に加速した一月でした。

そして、本気の魂を生きられている方々と、なぜか出逢いドンドン魂のミッションが、動いていく。

龍馬も松陰先生も皆さんそうだったと感じます。

燃え尽きる。

魂だからこそ、燃えて、燃え尽きる事が出きる。

人が魂に生きるとき、本当に充実していきます。



さて今日からアネモネの西さん小川先生がお見えになられ、明日からは中戸川くんが合流です。

八日は、菅家先生の会社にお邪魔して、更に多方面にこのミッションの拡大協力に繋げていきます。

トンボ帰りで一度戻り又、十二日には東京へ向かいます。

新井先生や、物理学者で武術家の先生、そしてUFOとコンタクトするサリバンさん、とお逢いしに
行きます。

菅家先生や、イオスの五郎さんが心配されていたように、この僕のミッションは、水源地の供給側もご利用される側という急速に入り口と出口が整い拡大しています。

時間が更に試され、もう人を雇いいれ、車を用意して、中間を繋ぐ作業グループを完成させなくてはなりません。

僕は更に新たな水源地と、サポーター開拓に飛び回りながら、更に皇の時代の身体に《皇の時代の新しい身体の使い方》を入れ換えるためのワークの教授が必要になり、もうこだわりで一人で一万人までは、ケイトラで汲み上げるという、悠長な事が許されなくなってきた事に対する、心配りを頂きました。

人を雇いいれて、更に大きなボトリングシステムを構築して行くには、どうしても先行投資が必要になります。

晩夏には、凄い勢いで動き出す伏流水からのプラン。

問題は初夏から、その晩夏までに体制を整える為の、先行投資という繋がりに6月中に僕が導かれるかという事に焦点が移っています。

そのために多くの方々が、真摯にお力沿いをしていただいており、ここは又層の違いにループの道筋をつける、僕の皇の時代の手腕が試されます。

更に心身共に、毎日毎日祓って、新しい自分で生きようと試みていかなくてはなりません。

細胞は、零化する伏流水のお陰で、ドンドン変わって行っています。

内部の細胞の変化に合わせて、外側の環境をドンドン変える勇気が試されます。

新しい細胞は三ヶ月毎に、以前の三ヶ月前の自分からの卒業を求めてきます。

だけれども、年を重ねるほどに、仕事も友人関係も様々を失うことが怖くなって、立ち止まり症候群に犯されて、鎮座を決め込みます。

例えば、小学校中学校卒業して、遠い関係に変化することで、キチンと次の成長した自分に必要な友人が現れ、そして又卒業していきます。

だからもう変化が当たり前だったよねと、関係性の守りに入らないことが、至極重要なのではないかと、感じています。

共に成長を容認して行くためには、分野で繋がっていては、必ず自らの成長をとめて誤魔化し続けなくてはなりません。

だからこそ、此からの皇の時代は、魂での繋がりに入って行かなくてはなりません。

魂には、分野のミッションの違いを、協力という形で結びつけれる、層の違いをループで結びつけれる事が、唯一出きる力があります。

アートな創造です。

野球のピッチャーが一人、素晴らしいバッターが一人、サッカーの名手が一人、料理の達人が一人、素晴らしい数学者が一人、素晴らしいダンサーが一人、素晴らしい宮司さんが一人、素晴らしいF1レーサーが一人、素晴らしいカメラマンが一人、素晴らしい教育者が一人、素晴らしいお山が一つ、素晴らしい服飾デザイナーが一人、さて新しい何が出来るのかというアートです。

同じベクトルの目的での、集まりはデザイン。

違うベクトルの全てが全く逆の場に終着点を持ちながら、一瞬、全員が交差する。

そのようなベクトル平衡体の中心で、共に味あう感覚がドンドン生まれ、ドンドン移行して行く。

無限の広がりです。

慣れるまでは、不安。

一つの過去の交差に囚われて、皆で維持しようとそこを停めたものにしやすい。

村上春樹さんの、色を持たないタザキツクルの巡業の旅について書かれた新作は、まさに此れから色も持たない零化する人間にしかできない、本物のタフさを書いているのではないかと思うのです。

同じく村上春樹さんの旧作、少年カフカでの主人公が目指した、タフさ!

違うベクトルを持ったものたちが交差する一瞬にだけ、色が生まれそして又零化していく。

それは慣れるまではとっても怖いこと。

色が自分を説明する、唯一の衣であったから。

実際は、衣を説明できても、零化したときに現れる魂のことは、一切説明できていない。

それを表面だけで繋がっているとは、あまり感じないで、群れていく。


僕も怪我とか、教えに海外に呼ばれたとか、ブロードウエイで振り付け助手していたとか、全部衣の説明でしかなかった。

それを売りにしているうちは、ペケ!

説明するには、良いけれども。

ところであんたは、その衣脱いだときに、何を生きたいのと、問われると空っぽだった。

そうして、脱いで、剥いで、脱いで、剥いで、やっとたどり着けるほどに、マアマアよくもこんなに着ていたはと、呆れ返った。

病気や、仕事の行き詰まり、家庭不和全ては、その象徴!

脱がざる負えない。

もうどのように、誤解されようが、おかしなやつと言われようが、それが自分ならそれと共に生きていくしかない。

それが正直ということ。

一時期は、孤独になるかも。

けれども衣の自分に、群れて集まっている、大勢がいるよりは、ズット清々しい。

そもそもその孤独の奥にこそ、最大の安堵という、完成された自分を、僕らは一人一人持っているのだと思うのです。

そしたら、昔の武士を生きたレベルでの切腹はあっても、認められない自分にいきる限界を見出だして、自殺はそもそもないものなのだと感じるのです。

必ず、日は昇る。

今は夕陽のときなだけ。

暗い真っ暗な夜こそ、孤独で越えなくちゃ。







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