あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

昨日は、アイアンマン3を観た後に、中戸川くんと銀座で待ち合わせして、イタリアン〜和食〜蕎麦屋さんと梯子しながら、本当に色々な事をおしゃべりしました。

結局、3日辺りに、山形にいらっしゃることが決まってしまいました。

今日菅家先生の《美し国》例大祭に出席した後に、仙台から泉郷にもどり、アネモネの西さん他三名様をお迎えします。

そして明後日には中戸川くんが合流されて、十日前後に、あらえびすの横の重要な繋がりを持つ水源地であり、コミュニテイーである福島の里山の重要なリーダーである、本職はカメラマンの泉さん他三名がいらっしゃります。

そして十五日に、イオスの取締役三名がいらっしゃって、いよいよ泉郷が御所山が外へ出始めて行きます。

十三日は、もしかしたら堀越さんにお誘いされた、宇宙人やUFOとコンタクトされる、合気道の師範の方、そして最近とても有名になられはじめた、同じくUFOコンタクトの達人のアメリカ人、新井伸介先生、そして映画シリウスという、なんか参加して合流したらどんな話になってしまうか、ある意味楽しみで心配な会に出るために東京に来なくてはならない雰囲気です。

そういえば、車に詳しい中戸川くんから、指摘をお受けしました。

ポルシェパラメーラではなく、パナメーラでした。


さて、アイアンマン3も、アメリカ対テロと思いきや、アメリカ対影のアメリカ戦争屋さんという構図が色濃く表現され始めました。

昨日駅で目をひいて思わず購入した、日刊ゲンダイ

一つは、売国アベノミクスの落とし穴。

一つは、猪瀬都知事の暴言。
けれども地震が来るかも知れない東京で、地価を守るためのオリンピック開催宣言の可能性大なので、良かったと思います。これ以上借金つくったら、都市直下型以降の東京再構築が、更に難航することになったでしょう。

アベノミクス、猪瀬知事どうように、このゲンダイでも内田樹さんの、ご意見がのっていましたが、国や都市等の株式会社化が何とも危険な考え方に繋がるからです。

そして富士山噴火、関西マグニチュード8が来そうだという内容。

極めつけが、CIAとそもそも前から知り合いの可能性が高い、今回のボストンマラソンのテロ犯人。

この四つの出来事と自分の活動や生活、仕事で起きていることの隙間を紐解き、ネックレスのように、紐をある順番を見いだして通していく作業。

此れがとっても良い訓練になる。

此れは伏流水を、あえて現在の市場にのせないで、全く新しい自然界が人間のものを申す事が出きるシステムを考えて準備してきたのも、その事が重要だからです。

過疎化した地域が全く違う視点から、自然界の代弁者としても意見をのべた上で、供給はそもそもこっちだぞと、ものを申して尚且つ自然市場主義としてイニシアテイブをとれるような、経済市場主義の典型東京、大阪、仙台等に対して、お水と、お米、緊急環境難民としての移住地、出来れば良好な空気、景観、そしてそこと普段から人間が繋がり続けることで、はじめてこの仕組みが成り立つ為の、普段から地元の方々との出逢いの場としての様々なプラン位は、最低人任せ国任せにしないで、自分が責任もって見つけて繋がって起きなさいという時に、必要な雛形であり、それに気づいた都市側の方々と、里山側暮らし代々守られてきた方々とが、お見合いできその中から、一番しっくりするお互いを出逢わせる、自然界と都市人間の結婚斡旋という、新しい仲介業務なのです。

フィリーグカップル五対五という古い番組のように、片側は人、もう片側にはお山の景観、そこの空気、美味しいDNAを零化出きる伏流水、良いも悪いも含めて一つで受け入れ暮らしていくしかない田舎人や野性動物、昆虫、雑草側からの旧都市側人間へ気持ち告白、そしてそこでお米等を優先して貰うための、労力、手間隙を、自分はどの事で、手間返しが出来るのかという逆側からの質問等を、何気に出来ていくような、リゾートホテルを考えているのです。

そう言うことに繋がっていくであろう、様々なきっかけがいよいよこの五月から、初夏の息吹きと共に始まります。

単純に、お水を配る事では、意味をなしません。

ワーク同様、隙間に動きを創る事で全体を動かす。

しかしその為には、相手を動かすことから卒業して、隙間を動かせる自分にしていかなくてはなりません。

場が動いていくから、その場に興味を抱く人々は、場と共に移動してしまう。

今までの平面二者択一では、場から場への移動でした。

此からの場とは、田舎とか都市とかではなく、ワークでやっているように、何時も御盆のような場を自分が自分の前に持った上で、お山とか、銀座のイタリアンとかという、御盆をのせる脚に御盆が移動していく、そのような自分の魂の不変な場が動いていく、それに素直に身体が反応していく。

一昨日子供たちと観た、クレヨンシンチャンのソース焼そばの焦げていくソースの甘い香りに誘われて、人が無意識に自分の後付け固定概念よりも優先して、魂の本音に気付けるコミュニテイーです。

避難場ではなく、魂の個が確立した人々が、自分の移動できる場を持ち続け真っ正面にキチンと対峙しながらも、その正方形の場が着地できる脚を見つけ出し、それを何ヵ所も持ちながら、移動できる柔軟な生きるです。

言葉ではわかりづらいのですが、此れはあまりに違う次元に設定されていると、考えがちですが、わかると全く逆です。

自分の身近なフイールドに、山ほどの階層の違う場を持っているかどうかです。

例えば以前blogで家のすぐ外には焚き火出きる場があって、家に入るとヨーロッパのホテルのような寝室があって、違う空間に行くと室内ステージがあって、手作りの露天風呂や、いくらでも使えるぐらいの薪の備蓄があって、そばの猟師さんが、勝手に持ってきて、入れていく野性の肉専用の冷凍庫があってetc、此れが日常の動き回れる空間に、何層にもわかれながら、点在している大きなoneの場に生きているかという事です。

例えば家の前で、焚き火出きるとキャップ場には行かない、家の寝室が愛が溢れるアートな空間なら高級ホテルには内装などの勉強以外には行かなくなる、冬に当たり前に犬橇で散策しながら、回覧板を離れたおうちに届ける、又はそれにのって、僕の創ろうとしているコミュニテイーなら、上のみんなの家と、下のクラブハウスの間を行き来する事が生活の延長で出きるなら、ペットを飼って散歩やドックランに連れていく日曜日が余暇出はなくなる、山登りは山菜とりで登山ではないなどです。

このように、如何に普段の生活に、多くのステージを持てるかが、皇の時代のステージの在り方です。

それをきっと五月の訪問者は、深くから体感されて、お帰りになられると想うのです。

そしてその生活が、皆で市場にのせない事で水や様々を利用して行くことで、安価な材や、信頼し会える人との繋がりから生まれる手間返しで成り立つ、皇の生活実践の場が創れていくのです。

それを体感せずに、皇の時代の都市を創ることは、絶対に出来ないと、僕は思っています。

都市型の世界でも、地方からの再生でもなく、層の違う全てを結びつける新たなoneの世界観なのです。







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