あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

中沢新一さん3は、皆様の身体進化の重要な指南!

たかだか1章の引用でも、写し書くだけで凄い時間がかかります。

真剣に身体進化する気がおありの方は、是非とも書庫に中沢新一さんの「雪片曲線論」を加えて下さいませ。

僕が身体の使い方で皆様にお伝えしている事や、何故伏流水手汲みを犬ぞりやカンジキ徒歩でも汲み上げて、皆様にあ届けしているかが良くわかります。

特に今、引用で皆様に共有して頂こうと時間を割いて、写し書きしている1章ならば、まだまだ引用だけでアラエビスの活動全般との関わりの大切さをお伝え可能ですが、健全な伏流水に雪片曲線が如何に大事かを説いてきたのが更に確信に繋がる次の章では、更に引用だけでは伝わらない素晴らしい内容になっておりましたので、融ちゃんラジオと併用しての身体ワーク配信を通して、さらなる深さの理解をして頂きたく、その中で中沢新一さんのこの素晴らしい内容を、身体理解にして頂きたいとの願いで是非とも皆様のもとに一冊お揃になる事を、切に希望致します。

身体ワークvol6の予習は、昨日書きました「恥骨を絞める」から、いよいよ逆逆さまの正四面体を骨盤内部に唯物化して捉えれるまで、身体意識の継続を出来る限り、毎日の数分(約一分〜二分程)×∞を実践して頂く解説になります。

その段階でvol5までの身体意識は、あえてシュタイナーも大切にされているように、無意識化して頂きます。

当たり前に身体に刻むには、この無意識化は、中沢新一さんの今回の書籍に見事に解説されております。

中沢新一さん引用させて頂いた、一回目に出てきたアレンギンズバーグさんの【「浄化」や「脱条件づけ」のいちぶとして、クリアーにものごとを見る〜つぎの思考に変化していく。それでいいんだ。】の中沢新一さんご自身の引用に全てが表されております。

今日は、あまりに中沢新一さんの解説が二章から難しく(此れでも凄くわかりやすいのですが!なんせ内外に沢山教えに行って、身体脳を伝える難しさが生業だった僕には、此処まで噛み砕けるはヒーローに値します)引用するは労力の割には報われないので、是非とも一冊何回も読破したくなる内容ですから皆様是非とも購入をお勧め致します。

さて、今日はこの本から最後の引用!


中沢さん
複雑な渦、力をはらんだ乱流の示す気象の現象は、いつもディスクールの手におえない代物だったわけです。

特に歴史の表面に気象が現れてきたことは滅多にない。

現代フランスの科学哲学者ミッシェルセールは、その美しい著作「物理学の誕生」のなかで、それについてこう書いている。

セールさん
気象の知(気象学)は歴史によって隠蔽され続けてきた。
国家の大きな歴史からも土地土地の小さな歴史伝説からも、科学の歴史からも哲学の歴史からも、気象の知は隠蔽され続けてきた。
天気ではない。
気象が重要なのだ。
即ち、雲、雨、竜巻、雹、雪混じりの俄雨、風向きと風力、いまここで地表を覆う全ての変化こそが大切なのだ。
支配的な風だけが重要なのではない。
気象は予断を許さぬアクシデント、思いもかけない偶然の場だ。
遭遇、非常事態、持続の中断だ。
だから、農民や漁師のようにその生業が深い関係を持った人たちでなければ、気象に関心をはらうことが殆どなかった。
知識人が気象と出くわすのはせいぜいバカンスに出かけたときぐらい。
せっかくの計画がお流れになったとき、ようやくはじめて気象の存在に気づくのだ。

中沢さん
気象の示す複雑で微妙な変化や運動を感じ取っていられる為には、農民や漁師や遊牧民のように常に耳をすまし目をこらし皮膚を鋭敏にして、環境の変化が示すきざしを読み取っていく観察の努力が必要だろう。

それには、ある程度「無知」であることも重要だ。

セールが言うように、知識人が気象を呼吸するのが難しいのは、その為である。

別に都会生活者だから彼らが気象の存在に疎いわけじゃない。

知識人は概念や問題やらを次々に作り出す、言語的現実の層に頭を占領されている。

その為「歴史=ヒストリー」というディスクールの作り上げる現実はよく知っていても、無数のアクシデント、無数の未知との遭遇、無数の乱流や渦に満ちた歴史という本当の出来事に出会うことは滅多にない。

だから、いまここにあって、たえず私たちを取り巻き、貫き通している気象を感知し、そこから生き生きとして柔軟な気象知(ドラゴン)を獲得していくためには私たちは夕暮れの砂浜にしゃがみこんで呆けたように一人じっと夕日と雲に見入っている漁師(東出的補足 アラエビス辺境の地でも呆けた観察眼で常に予測しては仕直し1日を過ごしている爺様婆様ばかりで、都市生活者の呆けたとは全く違う)のような老人のような、呆けた観察者にならなくてはいけないのだ。


この後も引用したいぐらい素晴らしい示唆を、中沢新一さんはなさるが断腸の思いでとばします。




中沢さん
原子は物を構成する基本単位(エレメント)であるが、原子には一方で「クリナメン」という不思議な性質が内在していると言うのだ。

ルクレティウスはこう書いている。



ルクレティウスさん
この問題(原子の運動)に関して、こういう点もまた君に理解してもらいたい。
即ち、原子は自身の有する重量により、空間を下方に向かって一直線に進むが、その進んでいる時に、全く不定の時に、又不定の位置で、進路を少し(これを原子のクリナメン、即ち原子の傾斜運動という)、運動に変化を来らすといえる位なそれ方をする、ということである。
ところで、もし原子がよく斜に進路をそれがちだということがないとしたならば、全ての原子は雨の水滴ように、一直線に深い空間の中を下方へ落下して行くばかりで、原子相互間に衝突は全然起こることなく、何らの打撃も生ずることがないであろう。
かくては、自然はけっして、何物をも生み出すことはなかったであろう。


このクリナメンから中沢新一さんはタオイズムに変化を試みます。



中沢さん
こんな具合にして見てくると、これまで曖昧にしか理解されてこなかったり、まるっきり逆の解釈がされてきた様々な言葉などが、新鮮な輝きをおびてくるようになるから不思議だ。

たとえば、中国のタオイスト達が繰り返し語り続けてきた言葉、「自然に還れ」などがそのよい例だ。

これは、単なる自然回帰への呼びかけなんかじゃない。

大脳をリゾームの森へと誘っていく「知性の自然化」への誘惑として理解した方がよい。

それはタオイズムの哲学思想にはっきり現れている。

タオイズムは徹底した「内在性の思考」を繰り広げて見せる。

そこでは、現実的な自然から超越してその全体を統一する神のようなモノは全て否定され、その代わりこの世界の全域を貫き、おおい、うねっていく巨大な竜のような乱流渦巻く力の場が、たち現れてくる。

タオは渦や波の起伏そのものだ。

それはこんな風に表現してみることもできるだろう。


フィリップローソンさん
タオイズムが心得ているタオは、中断することのない運動と変化の、継ぎめのない織物であり、ひとつの川のように起伏と波動と波紋、それと、ときに「起ちのぼる波」などに満ちている。
どんな観察者も自身がこの織物の機能の一部なのだ。
それはけっして停止せず、けっしてもとへも戻らない。
そしてスナップショットを撮るように観念によって私たちがとらえることの出来る、そういう波紋は全て永続しつつあるものという意味で現実ではない。



この後に中沢新一さんが書いてるこの引用が、「荘子」に語られた内容から考察しこの章を見事に纏め上げ、最後にイリヤブリゴジーヌさんの、この三日間で引用してきた、そういう発想がユートピア的なエレフォーン(無何有郷)から溢れ出てくるものであるとイリヤブリゴジーヌさんの「科学と哲学の対話」の引用でしめるのです。



荘子を取り上げての中沢さん
そういうタオイストの理想は、【荘子】に語られた次のような物語の中に、たくみに言い表されている。

ある日、孔子と弟子達が激流渦巻く川のほとりを歩いていた。
見ると遥か上流を一人の老人が泳いでいる。
老人は荒れ狂う川のなかを水を切って進んでいたが、突然すっと沈んでしまった。
心配した孔子は、弟子達を下流に走らせ、老人を救おうとした。
だが老人は怪我ひとつせずに水からあがってきた。
孔子は老人にどうやって危険な岩の間をぬって、激流を泳ぎきることが出来たのか、とたずねた。
すると老人が答えた。
「下降していく渦と一緒に潜り込み、上昇していく渦と一緒に浮かび上がるやり方を私は知っている」。
この老人がタオイストであったことは、言うまでもない。


荘子」の話は、タオを、無数の渦が流れ込むようにしてできた複雑な乱流に例えている。

タオは自然を貫いている能産的な力が自然成長をとげている場だ。

そのため、孔子のように、この多様性と運動性の場に対して、外側からの秩序をあてはめて、その成長をコントロールしていこうとする人にとっては、タオはこのうえなく危険な激流と見えるだろう。

けれど、奔流のなかに複雑な力線を読み取れるタオイストには、この流れは少しも恐ろしいものではない。

タオイストは奔流に身を投じて、孔子は岸辺に立ってそれを見る。

激流をしなやかに泳ぎ渡る老人は、それをとおして、タオの流れに直接踏み込んでいくことをさけ、岸辺に立って抽象的に物事を考えようとするニヒリズムを笑い飛ばそうとしている。

タオイストの理想(東出注釈 アラエビスや辺境人の理想も同じ)ここでは自然成長し続けるタオの力線を直観的に読み取って、それに沿ってしなやかに身をくねらせ、奔流と完全に調和した運動状態を実現出来るような精神をさしている。

「自然化された知性」とはこのような状態にほかならない。

それは大脳を無数の渦の集積としての、本来の姿に連れ戻すことだといってもいい。

そして、大脳がそのように「自然化」され、渦を巻く水流や、びっしりと植物の繁った森林状態にたどり着けない限り、知性は
けっして幸福になることはできない、とタオイストは説いてきたのである。



そして中沢新一さんは、こう繋ぐ!


中沢さん
さて、ここまでくると、「クリナメン」や「差異」や「モナド」や「陰陽」といった概念には、ある共通した性質のあることが、はっきり見えてくる。

これらはいずれも観察不可能で、実体化出来ない力や性質を概念化しようとしている。

それに、そうした概念は整合的なロジックで取り押さえようとしても、とうてい処理しきれないようなパラドックスをはらんでいるように見える。

しかし、そのことは、「クリナメン」や「モナド」などがおぼろげで曖昧な概念であるという事を、少しも意味しない。

知性のデカダンスとは全く関係がないのだ。

むしろ、それらの概念はシンプルでさえあって、それを道具としてうまく使っていくことによって、私たちは自然の全域で(無限小の領域においてまでも)絶え間なく繰り広げられている生成と運動の現場に、ちょうど激流を泳ぎ渡っていくタオイストの老人のようなしなやかな身振りで、踏み込んでいけるのである。

観察不可能で実体化する事は出来ないがその実在を認める事なしには、生成も運動も捉えられなくなるものについて、パラドキシカルだがこのうえなくシンプルな概念に磨きあげていく思想のスタイル。

ジルドゥルーズはそれを「差異と反復」において「概念の数学主義」であり、「概念の神秘主義」として誉めたたえた。


イリヤプリゴジーヌさん
「無何有郷」、それはすでにすぐれて観察不可能なものであり、「ここ」と「いま」が生ずるところであるが、そこには、原理的に観察不可能なものを排除することを新しい創造の
源泉としてきた我々科学者にとっては、確かに全く異質な思考がある。
だがしかし、観察不可能なもの、例えばライプニッツモナドやルクティウスのクリナメンなどの永遠の事物を思考しながら、彼らの哲学者達には科学に《先行》してきたのであり、概念とその内包を、科学がそれを使う以前にすでに探求してきたのである。


皆様3回に分けて引用した、中沢新一さんの様々な哲学を繋ぐ思考に、学んで育て上げるに値する進化の可能性を皆様も見いだして頂けることを、切に望みます。