あらえびすブログ

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もう一つ、匿名ネット主張の怖さを、内田樹さんのご本から抜粋!

誰でも語りそうなことはできるだけ口に出さない


自分が感じていること、考えていることを発表するときには、できるだけ「自分が死んだら、これと同じことを感じたり考えたりする人がいなくなる」ことだけを選択的に語るほうがいいと思います。

でも、ネットで発言している匿名の人のほとんどはその逆をことをしています。

「自分が死んでも、同じようなことを感じたり、考えたりする人がたくさんいること」ばかりを選択して発信している。

そもそも彼らがあえて匿名を選ぶのは、「こんなこと」をいくら書いても個体識別されて、反批判されたり、報復されるリスクがないということがわかっているからです。

「こんなこと」を言うのは「あいつ」しかいない、とわかっていたら匿名にする意味がないですからね。

発言の起源に遡及できないようにあえて匿名を選んでいる人間が「その人しか言わないこと」を書くということは原理的にありえません。

「その人しか言わないこと」こそ個人情報の最たるものですから。

ですから、個人情報を隠蔽するために、匿名者は「みんなが言いそうなこと、みんなが同意してくれそうなこと」だけを選んでいます。

もちろん、本人は「けっこうユニークなこと」を言っているつもりなんですよ。主観的には。でも、匿名を選択するという時点で、「ユニークであること」(「唯一無二であること」)を自分自身で拒否している。

匿名者は「たくさんの人が同意してくれるに違いない」という前提から発言しています。

ですから、「たくさんの人たちが使っている言い方や文体や修辞」をそのまま採用することになる。

「私は真理を語っている」という確信が深まるほどに表現は非個性的になる。「2たす2は4」という命題を個性的に語るのが不可能であるのと同じです。

そういうものなんです。

でも、「私と同じように考えている人はたくさんいる。なぜなら、私は真理を語っているからだ」という命題に基づいて、個体識別できないよう書き方をし続けることは本人が思っているよりはるかに危険なことです。

彼らは「自分と同じように考えている人」が自分の他に何十万、何百万人もいると思っている。だとすると、彼らには「情理を尽くして語る」必要がなくなります。どうせ誰かが自分に代わって、論理的に語ったり、めんどうな挙証手続きを踏んだり、統計やデータを揃えてくれるに決まっているんですから。

そういう面倒な仕事は自分には免ずることができる。だって、「自分と同じ意見の人」が世界中に何十万人、何百万人もいるんですから。

でも、そういうふうに考えるのは、とても危険なことです。

「自分と同じようなことを考えている人がいくらでもいる」というのは、裏返して言えば「だったら、自分はいなくてもいい」ということを意味するからです。「余人を以ては代えがたいこと」ではなく「同じことを語る余人がいくらでもいる」という前提で語っているわけですから、その人ひとりがいなくなっても誰も困らない。誰も気づかない。誰も惜しまない。

「私と同意見の人間がたくさんいる」という発言を「真理を語っている」と同定してしまう人は、実は自分に対して「呪い」をかけているのです。

それは「私が存在しなくなっても誰も困らない」「私が存在しなければならない特段の理由はない」という結論に向かう他ないからです。

「自分と同じ意見の人間が他にもたくさんいる」と宣言した瞬間に、その人は「いくらでも替えが効くので、いなくなっても別に困らない人」というカテゴリーにおのれを種別してしまう。

本人は気づいていませんが、「私はいなくなってもいい人間です」という自己申告は弱い酸のようにその人の生命力を蝕んでいきます。

ほんとうに。

命の力を高めるためには、「私がいなくなったら、誰もそれを言う人がいなくなるようなこと」だけを選択的に語ったほうがいい。

これは僕の経験的確信です。

自分以外の人でも言いそうなことはできるだけ言わないでおく。

誰でも言いそうなことをあちこちで言い募って時間を浪費するには人生はあまりにも短いからです。

メメント・モリ」というのはこのような心構えのことではないかと僕は思っています。


僕が倒れたら


「私が死んだら、私と一緒に消えてゆき、誰も再現することのない言葉」とはどんな言葉か。

それを自分の中に探る。

一行書いてみればわかります。自分の書いたものを読み返してみればわかります。

「ああ、これはどこかで読んだのを引用してきたのだ」

「これは、誰かの請け売りだ」

「これは『こういうことを言うとウケる』ということを知っていて書いた言葉だ」

そういう点検をして、ざっとスクリーニングして、それでも残った言葉があれば、それが「余人を以ては代え難い言葉」「私が死んだら、私と一緒に消えてなくなる言葉」です。

それだけが生きている間に口にする甲斐のある言葉です。僕はそう思います。

それくらいに特異な言葉のわけですから、そのままストレートに口にしても、まず他人には理解されません。

だから、なんとか理解していただくべく、情理を尽くす。論理の筋を通し、わかりやすい喩えを探し、根拠となる資料を集め、読みやすいリズムや耳ざわりのよい韻律で調音する。

「変な話」であればあるほど、人間はそれを人に理解させるために必死になります。「当たり前の話」なら、どんな雑な言い方でも理解してもらえる。「変な話」「そんな話これまで誰からも聞いたことがない話」はよほどていねいに語らないと理解してもらえません。

でも、そうやって「そんな変な話、これまで聞いたことがない話」を相手に伝えるべく、必死で言葉を紡いでいるうちに、言葉は洗練され、磨き上げられ、研ぎ澄まされます。そして、やがて「変な話ではあるけれど、言わんとすることは何となくわかる」ものに仕上がっていく。

そういう言葉だけが「人類への贈り物」になります。

せっかく言語能力を賦与されて生まれてきた以上は、「人類への贈り物」になるような言葉を選択的に口にすることをめざした方がいい。

どういう言葉が「贈り物」になるかどうか、その判断の基準は「私が死んだら」です。

「ぼくが倒れたら ひとつの直接性が倒れる もたれあうことを嫌った ひとつの反抗が倒れる」

これはある若い詩人の書いた詩編の一行です。

「ぼくが倒れたら」という言葉にこの若い詩人の万感が込められていたと僕は思います。

この言葉に支えられて、彼はその後長い思想的・文学的な孤立に耐え、彼以外の誰も彼に代わってなしえなかったような仕事を残しました。

「死を思う」とはこの覚悟のことだと思います。




今こそ、自分の存在をかけて、新しい世界を拓くべきだと思います。