埼玉県からサポーターさんが、甥っ子の大学一年生を連れてやって来ました。
8月は毎日日替りで、サポーターさんが水源を見たく、やって来られます。
まあどうにか大丈夫そうな方には、水源から山を谷に50メートル下り、そこにから沢を上がり約百メートル、マイナスイオン満載のステレオ滝にご案内してるのですが、此が又々本当に気持ち良くてズッーと佇みたくなります。
頭まで全身スエットならば、完全に岩に寝転べます。
どうにか今の沢釣りスエット胸まで長靴の上にハオル、水漏らないウォータブレーカーを見つけたいです。
皆様に水の流れをステレオで音で感じながら、寝そべってマイナスイオンに包まれ、水の恩恵に丸ごと浴びるを是非とも体験して頂きたいから。
その感覚は、僕らが忘れているZERO地点に我々を、案内します。
水源地でごくごく飲む、極上のウォータ!!
そして内部を駆け巡る水に何時も飲んでる水に僕らの内部が共鳴する瞬間を味わったら、同じ高さに流れる表層の生きた水を今度は僕らの皮膚感覚で味わい、その流れる音に浸る。
そしてカヤックで水になった私を、海まで運んでみる。
そこから、又々水蒸気になり雲になり雪の結晶になり山に戻る。
これはトーラスそのモノです。
はて、じゃあ僕らの身体の水もそのように、自分の内部から出たり表層を流れたり、又々巡って入ったりしながら循環してるか?
?、?、?、?!!
涙を、自己を慰める為に出すのではなく、タシャの存在の大きさに感動する涙、それに出逢う為に出す汗、感動の連鎖の為に水を飲んでみる。
そんな想像のベースにある体験が、ウォータを身体感覚で知るになる。
身に付くがウォータでもおきる。
地球の特質であるウォータが身に付くまで、捉えてみる、そんなデカイアートをズッート感じ続ける。
そんな金にも自慢にもならないナニカが、実は昨日のblogに書いた、ZEROから物事を感じる自分を鍛える。
その時「有」の過去が何かとてもツマラナイモノにみえて、何てツマラナイモノに固執してきたかと気づく自分と出逢う。
気づくは、今ZERO地点にいる証拠。
だから気づいた自分の新しい価値を、現実化しようとモガク。
せれを繰り返すうちに、ZERO地点が高くデカクなってる事にも気づく。
これは素晴らしいチェンジになる。
自分や周りの成長を「有」で見ないで「無」でみるに変わる。
無の質量を捉えられる自分に、変身すると実体は後回しになり、結果である。
だから武術の先の先とは、有の次にある有ではない。
今の有を捨て去った先にある無の事。
だから無というのは有るに繋がる、唯一のスタート地点!!
常にZEROからスタートしてみる。
今の僕らの体には、実は下水道がない。
だから、タマリ過ぎている。
様々が。
予定をたてながらも、未定で進むと次から次へとZERO地点が現れ、ZERO地点での未体験での調和が生まれる。
まさに植芝盛平翁のアイキである。
これからの絆とは、ZERO地点で起きる。
前を昨日を、完全にZERO化した同士が、又々新たな有を創る為に、出逢う。
だからワクワクする。
惰性の関係がない。
例えばセンベイを食べた味覚の一致ではなく、一枚だけ残ったセンベイに偶然二本の手が伸びる、このムーブメントの一致には、間違いなく縁を感じる。
ワークならこうなる、ZERO化された無目的な状況で、あえて右手左手の違いを感じてみる。
それが構えなんだと解ると、構えに形は無意味だと解る。
その瞬間に自由の本質をとらえ始める。
実は不自由とは、自分が自分の手にも生み出していると発見する。
日常使う手にも主体と客体が作られていた。
だから、有の世界を変えるには、自分の様々な部品を二項対立の思考から自由にする、それだけで世界は変わる。