新しいIターンを目指す 山と泉のトラスト お山繁盛コーポレーション
昨日は、イオスの村上専務と打ち合わせでした。
本当にお立場がおありの中を、共に、森と泉のトラスト お山繁盛コーポレーションにご協力頂いて、本当に感謝です。
さて今日は、昨日のモリスとヴェブレンとの違いから、考察していきましょう。
何故様々な知を紐解くのかと言うと、今の僕らの根本的な思考を見極めていかないと、今起きている様々な限界に、対処方が見えてこないからです。
今回の大きなチェンジングは、消費者自身の変格という、一番難しい題材だからです。
それは、僕の森と泉のトラストにも大きく関わります。
お山の水を機械で吸い上げているうちに、必ず地盤沈下が起こり、結果地下水の道を閉ざし、水は表層部のみ流れ、土砂災害にまで発展します。
昨日もすごい雨の山形でした。
もうす既に、一日挟んで十日ほど、降り続いていましたから。
その上で昨日の降り方は、スゴイ量でした。
ワンコの「雨」もケイトラの下で、雨宿り。
やはり、針葉樹が少なく、常磁性の岩の間を流れる水の道が多くあるので、西日本のような事にはなりませんでした。
あの雨量が針葉樹だらけで、地下水の流れる道が閉ざされている、西日本に降ったら甚大な被害になっていたでしょう。
実際に土砂災害に出くわした時に、何時もの何気に飲むペットボトルウオーターが、実は原因の大きなひとつであることには、気付かないし考えようとしたくないという、心が働きます。
そこに気づいていかないと、山岳崩壊禿げ山への道を、食い止めることは出来ないからです。
さてヴェブレンは、労働を過度に高く持ち上げ、文化や贅沢を過度に貶める理論を出しました。
一方で、工業製品に粗悪さを感じていたモリスは、アーツ&クラフト運動により、手作りの日用品が民衆の生活を豊かにすると。
そして、それに対してヴェブレンは、不完全性への礼讃であると、モリスの運動を避難したのです。
僕らは、効率よく工業製品を市場に生み出せるように、余暇を与えられた。
マルクスが描いていた、過去の労働環境は劣悪である。
27時間労働や、幼児の就労さえ当たり前であった。
しかしそれは、余りにも効率が悪いことに、経営者は気づいていくのです。
結果余暇を作り出していくのですが、残念ながら、人が豊かに暮らせるためではない。
効率よく、市場に商品を送り込む為という、前提があっての余暇であるのです。
もう既に、市場は、人よりも上にたってしまった。
これにさえも、我々は気づいていないはず。
さて、余暇を与えられた、新しい有閑階級である、労働者は、暇だった事がないから、暇を生きる術を知らない。
そして今問題にあげている、消費を突っ走る。
結果、原発やら不正規労働者など数えきれないほどの、問題が出始めたのです。
だから、僕らは今新しい一歩を踏み出したくても、なかなか踏み出せない。
それは、市場にとっての労働者であり、市場にとっての消費者という両面を生かされているからです。
フォードから作られたフォーデイズム、八時間労働、高賃金、そして余暇つき。
自社の車も、社員に行き渡る。
日本の冷蔵庫、テレビ、洗濯機という三種の神器、高度経済の頃の価値はまさにT型フォードの頃にあったアメリカを引き継いだだけ。
しかしそれに気づいて単純に僕らは異議を唱えたとしても、抜けられないゲーム、終わりのないゲームのプレーヤーになっているので、よっぽどのキッカケがないと、まずは難しい、だから余暇を暇とは何かを今一度、國分さんの思考の案内で見直したいのです。
労働を否定せずに、暇をそして職業さえも、労働と別の場に立脚させてみたいのです。
現代は、暇を生きる術を知らないのに、暇を与えられた人間が大量発生したという、時代です。
かつての有閑階級は、搾取よって成立していることを、四隅に一度置くのなら学べることがある。
彼らは、暇の中で退屈せずに生きれる術を知っていたからです。
暇と退屈が結び付いていない人達だったから。
今イデオロギー思考はなしにして、エニシングオーライで俯瞰しないと、本来は人間はこうだと言いたくなり、それが一番危険な結果に繋がりやすいからです。
ヒントは、いただきましょう。
フォードは素晴らしい人でもあったのです。
企業の成功は同時に労働者の繁栄であるとして、慈善事業にも熱心であった。
僕にとっては今一番、逢いたい人でもある。
必ず、企業は理念が高くても、絶対的な矛盾を抱えざるおえない。
ならば、その矛盾を一気に引き受ける場があれば、慈善事業と企業が一つになって全く新しい形態が導き出されて行くと、僕は考えているのです。
さて、当然企業は儲けを期待して、利潤を追求します。
その為に効率よく労働者には、働いて貰いたい。
それは、利潤をあげれるから。
ですから休暇は、労働のための準備期間であり、休暇という形で、外にまで労働は続いていたのです。
だから余暇を過ごすとは、資本主義の中にがっちりと組み込まれているのです。
フォードはスパイを使って、余暇の過ごし方まで、チェックいれていたのですから。
そして、余暇で他社の、もしかしたら自社の製品を消費する。
完全に資本主義の中で、がっちりと終わりのないゲームに参加させられているのが見えます。
だから実は休暇も働いていたのです。
國分さんの言葉を借りれば、資本は労働者をうまく活用する為に、余暇をも活用しはじめたのです。
言葉は悪いけれども、労働者は私生活も売りに出したのです。
働き蜂のお父さん、定年後の生き甲斐のなさもここから既に始まっていたのです。
しかし、企業から管理されない余暇があったとして、僕らは一体何をやったら良いのだろうか?
まだまだ管理されている余暇の方が、余計な事を考えずに済んだ。
疲れたら、月曜日のからの為に、ゴロゴロも良いでしょう。
そして、オートバイを購入して、ツーリングも良いでしょう。
釣りも良いでしょう。
さて、こうやって余暇をすごせないかたは、余暇の過ごし方をカタログからテレビから探す。
そうやって大きなレジャー産業が生む出されて行く。
しかしレジャー産業は、人々の欲求に応えるのではなく、人々の欲望そのものを作り出す。
整理すると、十九世紀の資本主義は、人間の肉体を資本に転化させる術を見出だした。
そして、二十世紀の資本主義は、余暇を資本に転化させる術を見出だした。
僕はこれを机上論ではない、新しい形態キアスム事業として世に出したいと思っている。
自己実現な時期も多々あった。
けれども3釻11は決定的な方向転換を見せつけた。
これは険しい山を登るしかないと。
3釻11が自然災害でも陰謀でも大差はない。
どちらにしても、先に創らなくてはならないのは、消費ではない構造だから。
けれども、本当に自転するまでが、険しい。
国に出したプラン、ついた担当の余りの理解のなさにもめげないで、進みたい。
だから、もっともっと勉強が必要だ。
本当にお水の試飲とお話に赴ける場が、創出出来れば、あの伏流水が大きく自転させる力になるであろうことは、ここまでの地味な活動で明白になりだした。
日本に僅かしかない、伏流水が僕の回りに集まっていることが、何かおかしい。
それを、本当に動植物も含めた民主主義に使えるように、していけるのか?
それとも集まってきた水にのまれて、僕は水没するのか?
二つに一つのように感じる。
明日も、暇と退屈の歴史を紐解きたい。
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