あらえびすブログ

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アシンメトリーな脳はそれだけで旅をする運動だ 第二章 その2

    アシンメトリーな脳はそれだけで旅をする運動だ 第二章        
           吉本隆明さんが仰有ってい
            「自分の拳に託せる以上の政治は語らない」                          についての東出融自身の考察エッセイ        
           内田樹さんと高橋源一郎さんの対談本             
            「ドンドン沈む日本ソレデモ愛せますか?」                          を読みながら身体から思うこと!  その 2

 こんなことが書いてます。
「これからは産直の野菜を個人名で作ったものを食わなきゃいけないんだよ!っていう新しいイデオロギーを作ればいいんだからさ。こう言うときは、ヤッパリ頭パッと切り替えてね。みんなが向こうにいっているときって、逆に側にガバーッと広いスペースがあいているんだよ。そこでなんでもできるんだから。」

私は服流水に心が奪われたのです。
マーケットがさきにあるからやる仕事とは全く違うのです。
ニーズがなければ生き方変えるしかない。
それが場数を踏むと言うことだと思うのです。
そのためには表層と別なもっと奥深い所に横たわって発掘されたがっている本心を聞くしかない。
私なら躍りは表層で方法論でしかない。
踊りたいと突き動かすものの正体が解ると方法は一杯あると気づいたのです。
それからは不安と言う言葉は僕の身体性には皆無になったのです。
内なる平和を手に入れたのです。

 こんなことも書いてます。
「皆が行かないところに宝があるんだよ。皆が行くところにはなにもない。それは常識なんだけれども、その常識が肉体化していないと、身体が動かない。戦中派の人たちは、皆がドッーと同じ方向に行って、日本が駄目になったこと良く知っていた。だから信用していないんだよね。皆が行くところには気をつけろって言う常識が、あの人たちは身体性があったから皆勝手な事をしてきた。だから今世間が浮き足立っている中でそんなに浮き足立つ必要はないよっておじさんがおじさんらしく言わなくてはいけないんだよね。」
私はこれもまた凄く共感を覚えるのです。
此処の部落にすんだ頃は、此処に沢山理解できる人たちを誘致しないとって正義感に燃えて肩肘張って頑張っていました。
やればやるほど何故か浮き足立つのです。
自己の内部の「場」と外の世界の「場」が結び付いていなかったからです。
けれども人が少ないだからこそ、その分野性動物がいることが魅力だって気づいたときに供給してよいのは流れ続けている水と風景だって。
だから行き詰まったら此処へ来ればよいだけだって。
すると思考が逆転したのです。

 服流水代行汲み上げ業務も融ちゃんが汲み上げる水だから飲みたいって。
農作物も何故、彼処まで作る人によって味が違うのかって。
自然界のものほど人の気を吸収するものはないって。
そうわかっていく内に確かな実感が目覚めてきたのです。
此れは皆で田舎暮らししようっていう会ではないって。
私は此方で生きていくよって言う表現。
水を活かしてあげればあげるほどに自分に深く染み入る身体性が解る。
ただそのことが何よりもリアルな信じれることなのです。

この本の最終に差し掛かると、ロールモデルを誰がこの日本でつくるのかと言う話になり、瀬戸内海の祝い島が例であげられます。
私も此処にはロールモデルを創りにやってきました。
それは必ず右肩下がりに当たり前に向かうのなら、其れを楽しむ豊かさを身体が見つけるためです。
ある意味ブロードウエイで振り付け助手したり、東京でバレエスタジオやっている頃、其なりに儲けました。
けれども何かが確実に失われていく。
その有り様を作品化しようと試みましたが、如何せん身体性の中に微かなロールモデルの発芽さえも無いのですから当然行き詰まりました。
結局伊豆を経てこの限界集落に住み着き、お金を通さなくても「ある」 と言う感覚が日増しに身体の中に「場」を生み出していくのです。
その時薪割りしながら無意識に唄が生まれました。
メロディーは此処ではお伝え出来ませんが詞のみお伝えします。

此処は昔縄文人弥生人が、山を挟んで生き方の違いで争った言い伝えが有ります。
其処で縄文人が住む黒伏山と弥生人が住む水晶山が山が綱引きをして、山が傾いたと言う神話です。
回りの山は仲直りさせたり、面白いことをやっていると笑ったりしたそうです。
もうひとつこの間に白水川と言う川が流れています。
ご病気の方のために服流水を汲みにこられた方が多すぎて何日も並んだそうです。
其処でキャンプ中にお米の磨ぎ汁で川が白く濁ったと言う言い伝えです。

実はアメリカにネイテイブインデイアンが言い伝えた、ミネラルが豊富で白く濁った水が脇出している場があり、体を痛めた動物は其処で回復する事を知り、ネイテイブインデイアンの中でも神の水と珍重された場が実際に有ります。
此処は既に、その神話を信じて諦めずに調査した一人の男が発掘成功して現在、世界中にミネラル原液のような形で流通されています。
その水はミネラル豊富で白く濁っているのです。
又其は木が天変地異で生きたままに地中に陥没してこそ出来るのです。

後々その事実を知ったときにやはりこの出羽に徳川の将軍さえもご病気の時にお水を汲みに来られたことを知ってこの地を選んだ自分は、身体のなかである閃きを持ったのです。
二つの山が傾いて要るのは陥没した可能性が高いこと。
白水川とは米の磨ぎ汁で濁ったのではなく元々濁っていたのかも知れないと。
其処でこの唄が生まれたのです。

黒伏山に朝日が登り満足顔の仲直し山 ウーウ ウーウウ ウーウウ
水晶山が夕日で染まり面白山が微笑んでる ウーウ ウーウウ ウーウウ
いつか いつかきっと叶えて見せようー
きっと きっと叶う桃源郷
お山は待っている新しい神話を
お山は信じてる僕らを 僕らを

私は誓ったのです。
この山の服流水を皮切りに全国の服流水を広めて解禁させ、自然界からの恩恵で、お金のかからない老後とお金のかからない身体性のある子供を育てるシステムをこの地でロールモデルとして作り、全国の部落を過疎のままに甦らせる事を。
其処に身体を捧げることを誓ったのです。

 この対談本にはこのような発言も出てきます。
「生身の個人が固有名で出来る範囲内で仕事するって言うこと。生身の射程を越えることについてはもう少し抑制的になるべきなんだよね。」
だからこそ一日最大一万リットルを手で汲み出すに拘ったのです。
ボーリングしてパイプ通して工場でボトリングして出すのでは何かが抜け落ちます。
活動宣伝から身体性獲得ワークから殆ど一人での身体の限界で動いていますので、月に二十日しか山には入れません。
ですから一万人会員が限度なのです。
けれども其れで細やかでも無料の寺子屋件回復方養老院が出来たなら、この五十代の叔父さんは何かのヒントを此れからの人に始めて伝えれると確信はしているのです。
二十リットルの汲み上げ用ボトルを一日五百個汲み上げケイトラに積み込み山に何度も往復して、其れを五リットルのガロンボトルに入れて四個一組で一日に五百個出荷すると間違いなく手の筋肉は腫れ上がり、大変な重労働でしょう。
けれどもその身体性を身体が求めているのです。
その身体性が一万人の先にあるロールモデル北極星のような輝きを見つけてしまっているのです。

環境を守りたいとか、スローフードとかそのような観念から出てきた仕事ではないのです。
もう身体が強くその労働から生まれるその先にあるビジョンに、力強く向かっていってしまっているのです。



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