あらえびすブログ

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舞 49 まるでチェスや将棋のように、切るか自分のカードをどのように

地球さんイイコイイコ体操の振り付けは、全く訂正する箇所もなく、スッキリと振り付けた僕の手から明日巣だっていきそうです。
後は今日二十回ほど踊って、僕が違和感を一回も一ヶ所も一秒もよぎらずに、持ちこたえられたなら、完成でしょう。もしも違和感感じたら、百回は踊らないと、完成に持っていけないのでしょうね。

振り付けは、パズルのようなものですが、パズルのピースも自分で作りながら、全画面を隙間なく埋めれたときにはじめて、終わります。
しかし此れが、隙間がまだあるのに時間切れとか、まあいいかという手抜きも存在します。僕も三十代の頃は多かったかな。
面倒で隙間を全くあり得ないもので埋めるもありますね。
それもあって、三十代後半は、「手抜きするぐらいなら、作りたくない!」になっていった時期でしょうか。
そんな時は振り付けの才能がないのかしらんとか思うのですが、実は全く違いました。
創作の基盤の原点は、幼少の頃のピュアなスポンジに染み込んだ、楽しい、美しい、悲しい、生命からくる怒り等の一滴目の感情だと思うのです。
あるとき、北海道で蓄積してきた、この重要な一滴目の下地の上に、コラージュしてきた、三歳から十五歳ぐらいまでの[生幹]を使い果たした事に気づきました。
最近の日本で起きはじめている、伏流水のように枯れてしまった。
不思議ですけれど、自分が枯れたときはじめて、地球も枯れはじめているって気づくのですね。
まだ注入しながら、振り付けなどの作業をこなしているうちは良いのですが、まさかガソリンタンクだとも思っていないので、使い果たしてはじめて気づくんですよね。
此れが学校とかで振り付けを学ぶと、注入しながらが上手な振付家になるのでしょうが、僕には興味がおきませんでした。
又そんな状態では、調子悪いを前提に、ユンケル飲みながら誤魔化しているので、怖くて飲み続けるしかなくなってしまうのです。
そしていつも振りに下ろして見ないと本当に描けるのか不安で、その不安さを補う振り付けというものに追い回されてしまうのですね。
僕自身も補充しながらという方法も、その後仕方がなく試しましたが、無意識に落としていないから、テーマがないと振り付けが出来ないような、態とらしい作品になっちゃうんです。
振り付けが意味付けにに呑まれてしまう。
そこで、何時振りに現れると一切期待しない、全くその段階では「何々ににいかしてやるぞ〜」を捨て去った上での、遊びの蓄積が大事なんです。

それが生活だってわかるまでは、まあまあとにかく勉強だって舞台観に通い、ストイックにしてみたり、スポーツカー乗ってみたり、自宅件スタジオの周りを花だらけにしたり、まあなにやっても、それで良い振り付けに活かしたいという下心満載だから、その分、元取ろうと意地い、てんこ盛りを創るですよね、結果!今思うと笑っちゃいます。

この一見何にも活かされないような、生活の中で工夫せざるおえない遊び感覚の格闘が、実は一番の振り付けを生み出す蓄積になってしまうのです。
子供は目的の為に遊びませんよね。
けれども僕ら大人は、目的をもって遊ぼうとしてしまう。
例えば下心で女性に食事をおごって、実は食事を一切楽しんでない。
アフターのsexの為にが目的。


例えば、ストレス解消のために、遊びに行こうとか。
そうなるとストレスがない遊びを選ぶものです。

逆に日々平坦だと、遊びで体にストレスをかけてやろうとする。

それでは、マクロ的な振り付けには決して到達出来ないものなんです。
そうなると、如何に活かしたいものへの気持ちを一切関わらせないで、思考ストレスも身体ストレスも含まれた日常に遊び仕事を持っているかが重要何だと、解って行くのです。

遊びですから、人からはどれが仕事かも解らない。
もちろん自分も。
だから!俳優もミュウジシャンも海外では、皆大体田舎に住んで、あえて贅沢貧乏暮らしを楽しめる場を持っているからこそ、何でもかんでも仕事しないのですよ。
日本は売れてやっとそれが出来る。
けれども売れてからでは、もう遊べないものなんです。

だから!ヨーロッパのアーテイストは、皆貧乏時代から、遊んできた。
それが創造の源だって解るから、あえてお金持ちになっても!田舎で貧乏的生活を楽しむ。

僕は現在リベンジでとっても貧乏な状況ですが、精神はきわめて裕福です。
こんな裕福な精神状況は、ある意味生まれてはじめてかもしれません。
きっと、上野公園のストリートに暮らす人も、ある時期を越えたときに、とっても精神は裕福だと思うのです。
こうなっていくと、リベンジを果たしても、全く日常生活は、お金持ちになりたくないのです。
一気につまらなくなってしまう。
それなりの家や賃貸に住んでいて貧乏は、今ここで取り上げようとしている貧乏とは大違いです。ある意味で、ここでの僕の暮らしは誰も貧乏とは思っていません。

この前、伏流水の活動の取材でいらっしゃたNHKのかたは、生活ぶりの豊かさに驚いてくれました。外はボロいのですよ。でも素晴らしく都会だって仰られる。
此れは移民ゆえに出来ること。
レッド・ツェッペリンの移民の歌。
ですから完成したらこのみんなの家は【移民の唄】と決めています。
此れから世界は、移民の時代です。
【場に安住するな!】だと思っています。いやそう生きるって決めています。

まあ後二年は内装改築に時間を要するかな。
東京で現在仕事していて、一番良い、来る時期を見定めている婚約者と自分の為に、創っている寝室は【マーク.ロスコ】のような現代アートを天井、壁、タンス全てで表現したく手掛けましたが完成には、後1年はかかるでしょう。
来年の露天風呂も全てが気持ち良いを求めての遊び。
それもお金をかけない遊び。
かけれないでは、つまらない。悔しい。貧乏臭い。
ゲームなんです。

究極は、「えーウソ!」をただで仕上げてしまうこと。
此れが最大の遊び。
此れがフット突然意図もしないのに振りに出てくるのです。
遊びの中で勝手に起承転結しているものが、振り付けに自然に現れたものは、決して流行り廃りに呑まれない、何か確固たる生命力を持ってしまっているものです。
此れが今回の振り付けで、僕は確信しました。
ヤッパリアートは生活が創るって。
だから!生活がアートじゃないと駄目でしょうとね。






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