舞 8 二度生まれの舞は、修羅場を日常化するタフさから始まる!
此処まで身体から紐解きながら、此れから起きる本当の修羅場に備える【舞】への転換をかきました。その身体の「場」と方法は、すごくシンプルなもの。
しかし其を日常化するには、その感覚を身体に染み渡らせないとならないのですが、此処がドップリと連なりの明日という、スキだらけの生きるを都市的なstyleで生きてきた我々には、大きなハードルでしょう。
僕はそこに戻るまで五十年必要でした。
けれども戻っただけにしか、まだすぎないのです。
それなりに生き抜く知恵の準備は、してきました。
伊豆での六年の、ナンチャッテ【自給的サバイバルを生きる】趣味的な入門編は、器具の、ある程度の使い方を知ったほどでしかないを、ここでの暮らしで実感させられました。
命の光の訓練としての【祭】からは程遠いものでした。
躍りなん〜てと自分で感じるようになったのも、【躍り】がではなく、【ナンチャッテの舞】に対する苛立ちでした。
【だんじり祭】は、震災の多いなか、逃げかたを学んだ【祭】です。
前に例であげた、イヌイットのお婆さんの躍りは、飢餓を寒さを鯨の脂身に託した人から滲み出る美しさでした。
僕らは生活に、唯生きれるだけに命がかかる緊迫感が、なくなってきてしまった。
【ナンチャッテの生活】ここから生まれる全ては、ヤッパリ【ナンチャッテ】です。
今其を本物に近づきたく二年半かけてやっと三歳。
まあどうにか【ナンチャッテ自給的サバイバルな生きる】をプロローグとして伊豆でやって来たから三歳ですが、此れから都会で震災をキッカケに、水がない、食糧不足(此れは震災がキッカケで例えばコンピュター制御の水道が危うかったという、水や食糧のパイプラインへの神話の崩壊することです。そしてその時に突然、地球上でこのように当たり前だと思っていた今の日本のレベルが虚構であることに気付かざるおえない時が刻々と近づいているのです。例えばパイプラインがないと高層階には、何も届かない。エレベーターでさえ危ういパイプラインです。)、勿論仕事がないというか出来ない、家がない、そのなかで暮らす知恵がない、此れは突然0歳に戻されるのです。
本当に其をまだ日常でこなしている東北に起きたから、崩壊した家の木で暖がとれたのです。
都会の新建材では、燃やせて有毒ガスと化学物質の異常な燃えかたを体感するだけでしょう。
この三歳の位置からスタートでも(来た頃は、もう少しましなナンチャッテだと自負していましたから勿論三歳では、ありません。ナンチャッテの五十三歳でした。)
自分で二万本越える薪を準備し、二年半かけてわかってきた、雪に対しての造作物のデザインや位置、そして、収入の転換、等々其々が飛び込んで見たものの、それさえも大変でした。
何回も造作物を建て、冬を越えると様々な意味でその形状や材料や位置では、ダメだと解り、折角作ったのに又解体。
応援してくれる地元の人は、「だから夏場の楽しみに作るものも、雪と冬を考えて作らないとならないだ。」とは言われるものの、失敗で始めて〔成る程〕と本質の間違いの箇所に、やっと気付く有り様。
ですから口先での【二度生まれ】の生きるから生まれる【舞】とは本質が違うのです。
この三歳でさえ、都市の人は、「そうやって、一つ一つ体験してきたんですね。タフですよね。」なんて言われるけれども、あなた方は、体感する暇なく突きつけられるのだから、鈍感なタフは、そっちですと言いたいんです。
僕は自然の驚異が三歳並みに知っているだけ。
だからチェンソー甘く見て足は切るは、化学物質の燃えるを知らないから火傷するわで生傷が絶えない。けれどもその時にわかるのです。新建材の火事は本当に怖いだろうなって。そうなると住宅展示場にある家は何れもが危険満載で、価値を感じない。
感じなくさせることが、良い家。
つまり生きてない家です。
自然の曲がった梁の栗などは曲がらないしそう簡単に火がつかないのです。その代わり乾燥する前に造作しないとそう易々と切れもしない。歯が立たないとはまさに栗材の為にあることばだなと実感できる、此れが学びです。
死を身近に感じる為の【舞】に、その【死の淵ギリギリから立ち上がり続ける舞】に今は絶対に転換できる大きなチャンスなのです。
本当に躍りが好きなら、この絶好な修羅場を前にして、本当の【舞】に出逢えるチャンスです。
その中からきっと先々躍り次がれていく、【新舞】が生まれるでしょう。
今生にいながら一度死ぬ、けれども出家しないで、恥ずかしいけれども間違いを正して生き直す。一回前の価値を全て捨て去る。そこから【舞】べき時です。
だんじり祭に対して恥ずかしくない【命をかけた祭の舞】を。
その為には、祭に命をかけては平和ボケです。
命をかけて、あなたは目の前で歩けなくなった最愛の人を、共に納得の上で見捨てても、繋ぐ命がある、その為に断腸の思いでそこから立ち去る。そこから生まれる【舞】です。
辛いことです。悲しい事です。自分の命を差し出す側も、其を見捨てて次に繋げる側も。
いたたまれない気持ちの連続の舞を僕は生きているうちに、踊りたいです。
死者と共に見る今と未来、其を【舞】と自分は呼びたい。
【命の舞】はマダマダ続きます。きっと人類が生きている間、続けていく意味がそこにあるのでしょう。先人が言い伝えた知恵やそこから生まれた【暦】も【祭】そのものです。
後は受けとる僕らが勘違いしないこと。真摯にいたたまれない重みを受け取らなくてはならないと思うのです。その為にも、受けとる価値のある自分を育てたい。
此れから究極の修羅場を体感する三年、そして立ち上がるプラス三年は、絶好のチャンスです。
一度生きてしまったものは0歳からでは、とてもキツい。
だからその前に生き直すこと、本気で始める同士を僕は求めています。
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