あらえびすブログ

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舞 4 初動のパワーは、当たり前と感じるほどに、穏やかだ! 身体が舞うことを待っている!

躍りの前に存在する、所作としての動き。
此れは何十年もずーっと、僕のなかで育てこだわって来たことです。
だからこそ、生命と躍りの中間に、生活styleの返還を配置し直しました。
馴染むまでに、相当の時間や試練がありましたが。
どうにか五十三歳で、三歳の頃の自分のたち位置上に立っています。

ループ状に螺旋階段を登りながらも下を見ると、三歳の自分のその真上に立てていると感じる位置です。必ず帰還する位置なのですね。出来るだけ早く帰還することをお勧め致します。
殆どのかたが、死の直前にはそこに帰還は出来ます。
けれども、生まれそして死するとき、その線上でどれ程素直に生きれたのかを、自分に問うのだと思います。如何に世間に翻弄して、自分を生きてこなかったかが明白にさらけ出されます。
此れが死の苦しみでしょう。

今自分は、此処へ到達できて軌跡を観察すると言う、中々誰もが到達出来そうで出来ない位置にいて感じることは、「相当に横風を受けて螺旋のループが流されていた」事実が見えるのです
それほどに自分の中に在る真実とは、かけ離れた五十年を生きてきたのでしょう。
海外での振り付けや教えの経験も、スタジオ経営も自分の中ではキャリアと呼びたくない、偽物です。自分がつくったものに、一番自分が拘束されているのですから呆れますね、人間っていう存在は。

先ずは、何もない世界に生きていたら、どう生きていきたいかという問いに向かい、はじめてたてれる目標設定です。
此処が在るもので創るアート感性とリンクするのです。
何もない中に、在るものを見つけれる能力の強化です。
例えば、ホームセンターでの部材を見るように、一本の倒された大木から部材を見極め、描き出せる能力です。
あえてその範疇に大きく二本に別れている節を見つけたら、それをデザインとしていかせれるかどうかいう、変幻自在な力です。三歳の頃の遊ぶ力にはその力が溢れています。

物が豊かに散乱していると、例え日曜大工でもホームセンターで直線の部材を買ってきます。
しかし在るもので創る場合、家の周りにいつか使えるかもと貯めておいた廃材やこのまま延び放題では限界にいる木を見て、使えそうな枝振りを見つける目利きの作用です。
此れが、死の淵から立ち上げる命の光という軸の正体です。
しかし、此れは、分野が確立することで成り立つ都市生活ほど、難しいことです。
軸といっても、竹のように螺旋状にいながらも、どうにか許容範囲の中で揺らぐ軸なのです。
決して真っ直ぐに在る軸ではないのです。
仙骨の引き下げ位置から、頭頂二本に分けている牛の角。
鹿などは何故あの角でバランスがとれるのでしょうか?
仙骨から尾骨への引き下げ土台が完璧だからです。
その角を前後にも想像して、ドンドン伸ばして広げていく。
それがアートの光です。
【舞の瞬間】とは時間概念を超越してこの【死の淵からしか立ち上がらない光の柱を、「我肚深くで「我」がしっかりと抑え、支点を突き刺し頭上高くに広く旋回させる事。それが可能な軸という光の筒と出逢い続け戯れ遊ぶ時】を見せているのです。
ジャックと豆の木位大きな大きな巨大な竹での、皿回し遊び!
此れが宇宙まで繋がって行きながら、宇宙さえもその円周の中に納まってしまうほどの思考。
【舞】とは、宇宙観での未来の思考との出逢いそのもなのです。
偶々観客がいる。けれどもその観客は自分の手足の延長として存在しうるものになりうるのです。
即ちそこには、見せるもの見るものの解離が永遠に起きることがない「一体に繋がるもの」として存在していなくてはならないのです。それが自分の【舞】への到達眼差しです。

では今度こそは又明日!

昨日今日の埼玉ワークの受講された方々お疲れ様でした。
僕はこの解離が起きない日常を皆様にお届けしたいのです。
ですから、あえて構えて踊らなくても、日々在るさりげない瞬間、例えば調理しているときに皆様も「あれ、今舞っている」と感じてほしいのです。
三歳は生活の全てが遊びで【舞】を通して光の軸と戯れ続けているのです。
此れが【舞】の原型です。
それを作品にして見せる人が本物のpuro。
しかし此れは日常に【舞】という動きを、自分の中に発見できた方だけが見極められる醍醐味なのです。だから実は皆様も【舞】へ向かってワークを受けられているのです。
【舞】は所作の総称としての動きを意味するものととらえ続けて下さい。
実は楽しいことが「待っている」とき、もう既に「舞っている」のですから。





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