舞 1 舞と音そして死の中心から湧き起る命の光
頸椎の数は、七個。 腰椎と仙骨、尾骨を足すとやはり七個。そして、ドレミファソラシも七個。この数の概念はどこか頭の片隅に、イメージを置いといて下さいませ。
シュタイナー建築では、柱に弦を張り、和音で調和されることで寸法を割り出す。
和音でハモる建築物は、自然界の風雨とも調和されるという観点から、建築家には絶対音感が求めらる。ここに数学と音学そして身体学としての身体知のヒントが潜んでいるのです。
音階が上がっていく情報を、仙骨、腰椎で捉えながら、更に胸椎、頸椎で情報を捉え駆け上がっていく。
そして低くなって下がっていく音階は、頸椎から仙骨に向かって下がっていく事で身体が捉えている。
そして「間」を捉えているのが、尾骨である。
「死と生の境界線」=「間」である。
例えばスピンを駆ける時に、音に入る前の「間」の操作で、尾骨を反応させるからこそ、床を突き刺し、立ち上がり回ろうと出来るのである。
しかし殆どが音を捉えてから、反応してしまう。
その時音は外に存在してしまうのだ。
これでは、床を突き刺す前に引きあがりがが起きて、スピンは放り出される事になってしまうのだ。腑に落ちる前に行動して慌てているときと同じである。
そもそも音楽とは、「間」をとらえる為にあるものであると感じるのです。
即ち「無」の瞬間を見つけることであると。
「無の瞬間」即ち「死の世界」である。本気で「死」を身近に感じたとき時にこそ、その中心に命の種が光を発している事にはじめてに気づくのである。
生の中に実は、「生きる」は存在していないのである。
死の淵にこそ、生きるが存在している。
この死の中心にある「命の光」が音を捉える時に、「間」の世界はその外に存在し始める。
大木の根が聞き耳を立てながら根を伸ばし、伏流水を探しあてるかのように。
つまり自分の中心が音そのものになるのである。
その瞬間を自分は「舞」と呼びたいと思うのです。
「舞」とは、音そのものの自分と、出逢う瞬間の連続体であると。
死の世界ぎりぎりにこそ横たわっている、ダイナミックな「命の光」と出逢うことであると。
この続きはまた明日!