新しい贈与的経済を生み出すために
去年の今日の融ちゃんブログ
Facebook投稿の一年前の思い出で上がってきたので読み返したところ
融さん書いていること一貫しているのはもちろん
自分が着目するところも変わっていなくて
それはいかに
これまでの思考から抜けるか
より深く本質を捉えられるようになるかってところで
それは私だけでなく人類にとっての課題と言っていいくらいだと思うのです。
全員の学びだと思うので
みなで学んでいけたらと思い
このあらえびすブログでも過去記事を時々取り上げ
繰返し学び繰返し広めていきますね。
繰り返すことで新たな発見があり
その発見がいまの自分を深め今を生きる助けにきっとなるハズです。
さて昨年のこの時期とりあげていたテキストは中沢新一さんの「森のバロック」
マチエールって言葉がよくつかわれましたが
上記ブログに書かれていた「流動的なマチエール」って
映画「くう」http://www.studiomaili.com/KUU.html
と繋がるんじゃないかな、と思いましたよ。
映画とおなじく 融さんのブログ記事も頭で理解しようとしても難しいので
肚で感じて読んでね。
私が気になった内容の覚書は
・トーテミズムの思考の凄さ
・自分の二番煎じも彼は、自分に許さないアニミズム
・コンテンツを使うかぎり、残念ながらトーテミズムには、繋がらない。
・過去を題材に策を高じなくなり、自由が身体知におち
それこそが新しい贈与的経済さえも、産み出していく
融ちゃんブログからの引用
「我々の目の前に現れる全ての事は、メッセージ。
しかし、そのメッセージを紐解くツールを、トーテミズムにしているか否かでは、全く違う世界が生まれるのです。
ここには、自然界に対しての謙虚さがないと、たどり着けません。
この謙虚さを、畏敬の念・畏怖の念と呼んだのです。
それは、トーテミズム思考が、流動的なマチエールであり、それを伝えてくれるのが自然界のみだからなのです。
ですから、深い深い畏敬の念と畏怖の念を、toolに出来たならば人類は贈与的経済を手にすることが出来るのです」
流動的なマチエールについては 昨年の朝ミーティングの動画で詳しく述べられていますが
例えばね、
魚を見て海を見ていない
魚は海という神が一時期休んでいるカタチのものでしょ
だとしたら魚の神としての流動体って海だよね
そこを観なくなった
山だったら
伏流水だったり風だったり雷だったりっていうのが神だとしたら
その結果休止しているものが木だったり動物だったり
なのに木と動物しか見なくなった
流動体の神と
止まった神と
ちゃんとみなきゃない
休止したところで名前を付けて固定したら森のバロックでなくなる
食べて消化するとも流動的な神にもどすことだとしたら
食べるって概念も相当変わったものになるよね
ね、くうの世界でしょ
昨年行われていた朝の読書会
2016/10/13の融ちゃんブログのタイトルに書かれていた映画「マネーモンスター」
今現在はプレ肚国家と題してどなたでも参加可能のミーティング行っています。
今年も寒鮭受付け開始しました!
staff伏見忍