あらえびすブログ

あらえびすのブログです。各プロジェクトや、日々のこと等情報発信。代表東出融の過去記事、Facebook発信のまとめもみることができます。

昨日は仙台でのお話会。皆様にたくさんの気持ちが届いたようで、出雲同様に次の開催を期待されました。

今日も緊急で大先輩のブログです。

 

これから那須のお話会に向かいます。

 

ーーー以下転載ーーーーーー

 

「何が問題なのか? つづき 」

 

「自分たちが供給する量を、需要と一致させる」。そのためには、「作られた需要ではなく」、「本物の需要」を掘り起こす戦略を確立することが欠かせない。私たちが本当に考えねばならないことは、「公共水道が抱える不合理性を、抜本的に解決する具体策」だ。それには、日本政府が「無思慮に続けてきた水道の国営化」を、「民営化」「自由化」を通して、「やめさせる」といった一大方向転換が不可欠だ。なぜなら、社会インフラの整備・更新を税収で賄うという発想は、不要不急のものを買わせようとする経済同様、最早「辻褄が合わない」ものと成り果てているからだ。

今年の4月1日から電力の自由化が幕を開けた。その中で、地方では自治体が主導する「再生可能エネルギー」の売電というオプションが登場してきた。それを「水の自由化」にも応用して考えれば良い。自治体に委ねられている水道事業は、確かに大きなお金が国からの補助金として動く。だが、その実、維持更新費も高いので、その後の負担が自治体だけでなく国にも大きくのしかかる。その水事業を自治体が民間に託せば、税金の無駄遣いを止めるだけでなく、多くの民間企業が、雇用を生み、税金を納められるようになる。地方には、天然資源としての「天然水」が豊富にある。だからこそ、地方経済は、その天然資源の活用の如何によって如何様にも活性化できる。その「必然性」になぜ?気が付けないのか?

ここまで書いた時点で、「熊本地震」が起こった。
そして、本当に「毎度のこととして」被災地での「飲料水」の不足が報じられている。地球温暖化による風水害の増大に加えて、世界中で地震や火山の噴火が頻発している。これらは、私たちには見えないところで「連動」している。「地震予知」という点では予想もしていなかった地での地震、そして、一つの断層が動くことで他の断層までも連動して動いた事実を、私たちは「肝に銘ずる」必要がある。「人智を超えた」自然災害が頻発している。それは、人類の「人智」が、実際に起きている地球の変動を捉えられていないことを意味している。その事実に、私たちは気付かねばならない。

今のシステムでは、「天然水の宝庫」であるはずの日本では、自然災害がある毎に「飲料水不足」が報じられることになる。自然の脅威を目の当たりにしながら、この「ドタバタ」は、一体「いつまで」繰り返されるのだろうか?災害がある毎に、漏水し断水し機能しなくなる水道管を、いつまで「頼りに(=国営化)」し続けるつもりか?そして、その公共水道の不備を補うために、大企業の生産する僅かばかりのペットボトル入りミネラルウォーターに、「どれほどの役割を期待しようと言うのか?」

この現実と、対策の「薄っぺらさ」が示す「乖離」には、「無常感」を禁じ得ない。

 

3.11で、公共水道が放射能汚染を受けた。その報道ひとつで、都内の売り場から「ミネラルウォーター」が姿を消した。それから5年で、熊本地震が起きた。この間に、日本の自然災害の危機管理はどれほど進化したと言うのか?今回の地震が仮に東南海トラフ震源とする大地震だったしたら、政府の危機管理体制はどれほどの酷評を受けたことだろうか?

3.11後、私は10の自治体に対し、「(5L程度の容量の)空ボトルとキャップ」の備蓄を呼びかけた。賞味期限が過ぎると廃棄せざるを得なくなる中身入りのものではなく、「空ボトルとキャップ」を各自治体が備えて置けば、被災地から近い自治体が順次「飲用水」を送り込むことができる。すべての自治体が「空ボトルとキャップ」を備蓄して置けば、必要に応じて、必要な期間、緊急時対応が取れる。そうした「臨機応変さ」と「草の根的な支援体制」が、日本のような「災害及び地震多発国」には必須だ。だが、「検討したい」という返答をくれたのは、神奈川県だけで、後は「ナシのつぶて」だった。

政治が、現実に起こっている事象に対し、まったく「対応力」を持てないようになってから久しい。すべてが「泥縄式」で、対策は「後追い」だ。それは、政治が間違った考えに基づいて、間違った方向を向いているからに他ならない。

はっきりと申し上げておこう!熊本地震は、地球の大変動の予兆だ。水冷式の地球が海水温の上昇に伴って、地球内部を十分に冷し切れなくなっている。そのことで、マグマが動き出している。だから、地球の固まった地表は地底からの激しいエネルギーをまともに受けるに至っている。
そんな地表に、私たちは「無意味なほどに高い」バベルの塔を躍起になって立ててきた。それが、あたかも「文明の証だ」と、私たちは信じ込んでいるかのように...。その分、人類は、自らが「自然の調和」を壊しているという「意識」を持っていない。そして、それが人類の「種」としての「弱体化」を推進させてしまっているという事実にも気がついていない。

 

問題の根は、「経済の原理」が無視されていることにある。世界中に蔓延する「金融緩和病」によって、「需要を意図的に作り出す」という「手品」のような経済が罷り通ってきた。そして、その「手品」があまりに長きに渡って公演を繰り返すので、人々はそれを「現実」と錯覚するようになっている。だが、「手品」で動く世界が、人々の「目を瞠らせる」のは、その恩恵が自分にも及ぶと感じさせてくれる間だけのことだ。「生活が苦しくなったり、」「未来に展望が持てなくなったり、」してまでも、その「手品」を見たがる者などいない。

実質経済が動かなくなってしまったことは、もう誰もが良く知っている。緩和マネーにすがって、供給する側が増え続け、本来なら破産しているはずの人や会社までが居座り、商機を伺う(=商売をかき回す)。あるいは、緩和マネーを使ってプラントの大型化に迷い込んだり、商売の無理な拡大に乗り出す企業や人も居る。

だが、供給側がどれほどの無茶をしようが、そもそも買う側に「買う」だけの体力がない。「生活が苦しくなっている」のに、不要不急のモノを買う人などいない。「未来に展望が持てないから」、泣けなしのお金は貯蓄に回す。こうした環境で、実質経済が活力を取り戻すことなどできるはずがない。

だからこそ、「本物の需要」に供給側が目覚めるしかない。これまでの「延長」で物事を考えても何も変わらない。答えは、「問いの中にある」のだから、それを正面から見据える目を持たなければ、何も見えない。手品では現実は変えられないし、人々が「買えるもの」を「売る」ことにしか、そもそも商機などない!その原点に還る!

たったそれだけのことだ!グローバル経済という「妄想」が、あまりにも大きく人々の頭を占めてしまっている。が、需要と供給の関係を無視した(グローバル)経済では、商売は「競争力」という言葉に振り回され、「本質」を見失う。挙句に、その競争力を得るために、消費者は「雇用」と「収入」を得る機会を奪われてしまう。だから、モノを買うための収入源を絶たれた人々の住む国内の経済が、「デフレ化」することを止める方策など「どこを探してもない!」それが、目の前で何十年と続いている光景だ!そして、それが世界中の先進国を覆っている現実だ!

 

つづく