あらえびすブログ

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倍音は宗教儀礼の確信部分(内田樹さん著書の最終講義より抜粋)

学校でも合気道部や杖道部の師範をしておりますが、特に合気道の稽古ではときどき「倍音声明」をします。これはヨガの成瀬雅春先生から今から十数年前に直接習いました。
ご存じの方もおられると思いますが、成瀬先生はチベットで修行されてきて、空中浮揚をされるという有名なヨギです。
成瀬先生に教えて頂いた倍音声明は非常によい瞑想法なので、合気道の合宿でも必ずこの倍音声明をやります。

倍音声明とはすごく簡単なもので、「う」「お」「あ」「え」「い」の五音と、「ん」というハミング音の六音を順に繰り返し、円座を描いて、皆で声を出すというものです。
4、50人もいると非常にきれいな倍音が出ます。
最初のうちはさらさらという、ちょっとガラスがこすれるような音がするんですが、そのうちに、だんだん低い音に変わってきて、色々な音が聞こえてくる。
なぜ倍音声明が瞑想法として非常にいいかというと、これは注意して聴いていないと、自分が何の音を聴いているのかわからないからです。

ここは宗教的な訓練をされた方がたくさんいらっしゃいますので、倍音声明のご経験のある方もいらっしゃると思いますが、倍音声明で自分に聞こえる音というのは、ひとりひとり違うんです。
僕の合気道の師匠である多田宏先生は、イタリアで合気会を設立されてイタリアで50年近く合気道の指導をされているのですが、イタリア合気会倍音声明すると、イタリア人たちに何が聞こえるか訊くとグレゴリオ聖歌が聞こえるとか、大聖堂の鐘の音が聞こえるとか、天使の声が聞こえるとかいう感想を述べるのだそうです。
日本で倍音声明をすると、お経が聞こえる、鐘の音が聞こえる。

つまり、この倍音声明でひとりひとりに聞こえてくる倍音というのは、外在するもののようでありがながら、実は「自分が最も聞きたいと思っている音」を選択して聞いている。
どうしてそういうことが起きるかと言うと、倍音は脳は「上から降ってくる」ように聞くからです。
そして、あらゆる社会集団はそれぞれの神話やコスモロジーに基づいて、固有の「天上から到来する音」についてのイメーイを持っている。
ですから、倍音を聞くというのは、種族のコスモロジーを身体的に感知するという経験に詳しいわけです。そして、ひとりひとりの霊的な成熟度に応じて、聞こえる音が違ってくる。

荘子』に「天籟」という言葉があります。
古来、解釈の難しいとされた言葉ですが、僕はこれは倍音のことを言っているのではないかと思います。「天籟」というのは「天の奏でる音」のことです。
荘子』斉物論によると、子遊が南郭子基という賢人に「天籟とは何のことか」と訊ねると、子基はこう答えます。「夫れ万の不同を吹きて、其れをして己よりせしむ。みな、其れ自ら取れるなり。
(さまざまの異なったものを吹いて、それぞれに固有の音を自己のうちから起こさせるもの、それが天籟である。万物が発するさまざまな音は、万物がみずから選び取ったものに他ならない。)」
 倍音の定義として、これはきわめて適切なものです。
「万の不同を吹く」というのは、まさに周波数の異なる無数の波動が干渉し合う音声的な環境のことを指しているように思えますし、「其れ自ら取れるなり」というのは、その音声的環境から自分が聴くべき音を人は自分で選ぶのであるということであるとすれば、これは倍音のこととしか思われません。

古来「天籟」というこの語の解釈が難解とされたのは、倍音を聞くということがなければ、まず力の及ばない音声的経験だからでしょう。

荘子が言うように、天籟はまさに「天上から到来する音」であり、かつ聴く者ひとりひとりに違う音として聞き届けられる。
そして、そこに何を聴き取るかは、その人の宗教的成熟度、霊的成熟度に深く関わってくる。
そして、どのような水準にあっても、倍音を通じて聴き取る音は、その人が最も聞きたいと思っていた本当の音なんです。
その音が天上から自分に向かってまっすぐ降り注いでくる。それが倍音です。
ですから、音楽的愉悦としても、宗教的儀礼としても、あるいは荘子のように哲学的成熟の指標としても、倍音を重んじるのは当然のことなんです。

そんなわけで、僕は倍音に関してこの10年くらいときどき考えてきたのです。
倍音の一番肝心なところは、ひとりひとりの個別の霊的成熟度に合わせて、聞こえる音が変化するということなんです。
そのとき、おそらくその段階において最も相応しい音、自分が聞きたいと思っている当の音が聞こえてくる。このジャストフィット感が、その人の人間的な、あるいはさらに言葉を限定して言えば、霊的成熟にとっての導きの糸になってくる。

その倍音というのは、ここまでは単に周波数のこと、物理的な空気の振動のことを言っているわけですけれど、実はもっと広い意味でも使えるのではないかと思っています。
人間が経験する波動には音声的なもの以外にもさまざまなものがあって、空気の波動だけではなく、もっと違う度量衡でしか考量できない種類の波動もあるのではないか。
その波動が輻輳するとやはり倍音が聞こえてくるのではないか、と。

 
音声的な倍音の場合ですと、例えば、何人もの僧侶が読経をしていてそこに倍音が生じるという場合には、僧侶たちの身体の大きさ、発声器官の構造、固有振動数も違う。
ですから、音がずれる。音がずれるから、良質な倍音が生成する。
倍音生成の必須条件とはそのことなわけです。だいたいの方向性は決まっているが、微妙な個体差があり、それが一斉にあることをするときに、そこに倍音的な何かが生まれる。そういうことではないか。

(1)
倍音というのは、先ほど言いました通り、それを受け取る受信者の側の霊的な成熟度、その人が内面化している「種族のコスモロジー」、思想、美意識、価値観、そういったものに則して文節されてゆく。ですから、「倍音的な文体」で書かれた文章を読んだ読者は、そこに自分だけに宛てられたメッセージを受信することになる。

(2)
自分の中に、複数の語り手を同時に存在させることができる。それをコントロールできる。これがコントロールできなくなると、多重人格になってしまう。そのつど別人格が交替して出てくることになるけれど、それでは倍音はでない。それはいわばオーケストラの楽器奏者がひとりずつ舞台に出てきて、自分のパートうぃ演奏して、また引っ込む、というようなものです。それでは音楽にならない。交響楽が成り立つのは、ソリストが演奏をしているときでも、背後はすべての楽器が低い音で絡みついてくるからです。だから、倍音的な文章が書ける作家のものであれば、それこそどんなに短い文章でも、わずか一行の文章でも、そこに倍音は発生する。


これは、身体ワークvol.5で重要なので、内田樹さんのご本から転載しました。