あらえびすブログ

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アシンメトリーな脳は其だけで旅をするという運動だ。1章 ラスト

第一章  その7 (ラスト)   
       アラスカから南下すると言うこと  北方海洋民族からの旅立ち!  

 憧れのイヌイットとアラスカインデイアンに出逢いながら僕は南下を始めた。
此処までの旅で自分は身体の中にある北極星と出逢った。

肚と言う場を掴みながらドンドン北上するなかで得た最大の脳内中心での北極星、その輝く光one。
南下するとはこの霊的空間で掴んだ何かを人間社会に表現することなであろうか。

肚〜脳内中心そして肚へ。
きっと自己のなかで熟成したものが今度は外の世界に「場」と言う肚をうみだすことなであろう。
其が腑に落ちると言う瞬間なのだろう。
と言うことは自然界にある霊的空間を通過して其処から学び熟成したものだけが腑に落ちると言うことだ。

 自分は山形の限界集落に暮らして二年半やっと自然界の音と共に、此れから生まれでるまだ受精もしていない未来の子供の魂の声も聞こえ始めてきた。
そうだ、僕は女性性を獲得したのかもしれない。
Uターンした肚からやっと聞こえ始めた声だ。
リターンした光は子宮に落ちて発芽するのだ。

此れは生命だけではない。
全てがその道を通っていくのであろう。
其を芸術と言うものの正体かもしれない。

そういえばEUの企画で呼ばれた何回かのワークで、ダンサー達の「哲学から東洋の身体から生まれた思想や身体操作まで」あらゆる角度から質問攻めにあったことをフッと思い出した。
日本ももっと成熟してこの限界集落にフランスのカルチェラタンのような生涯青春の街が必ず東北から始まると信じれるのです。
よい音楽が自然界の音が溢れ其処で人生の喜びを旺盛する街が。 自然に笑いが溢れ当たり前にダンスが溢れる空間。
芸術とは創造力で自然界と人生の喜びを繋げるもの。
そのヒントはヨーロッパに溢れている。

けれども我々は日本人である。
だからこそ僕らの場に根差した「場」から生まれる、日本のカルチェラタンを東北に生み出すことを自分に誓いながら更に南下してチリを目指し始めた。
西洋も東洋もない。
その思考に縛られているうちは自分の居場所には一生出逢えないのであろう。
今ならまだ間に合う。
その思考の源泉の音、風景、匂い、空気の感触、動物の気配etc。
全てが今日のレシピの貴重な材料である。
其を失ったら最後二度と取り戻すことは不可能に近い。
身体はそれをよく知っている。

日本の元風景のネズミーランドでは本当の身体は動かないのである。
虚構に逃げたら最後、更に精巧な虚構を作り続けなくてはならない。
何度人間はこの過ちを繰り返したことか。
当然其れでは肚が虚無になる。
肚は実なのである。
浮き足だった身体に何処かで区切りをつけて、地に足をつけさせなくてはならない。
もしかしたら! 世界中で一番民族性を我々日本人が、失いつつあるのかもしれない。
日本人の身体の中にまだ微かに残る音、匂い、風景の心地よさを知っているのは身体なのだ。
それこそが内面の深い部分からの一人立ちだ。
シンメトリーな世界にどっぷり所属しながら、アパート借りて独り暮らしすることを一人立ちと呼んではいけないのである。

 北から南下するごとに自分の真から欲しているものが余りにも明白に現れ始めた。
ネエイテイブピープルのラファール猿人は移動し進化するもののその課程の中で結果失わなかった共通の物は身体性なのだと僕は悟った。
だからこそこのネエイテイブピープルの血は世界を網羅することを可能にしたのであろう。
極北に住もうが南半球に住もうが赤道近辺に住もうが「場」とは見える世界のことではないのである。
「場」とは身体性だけが知っている。
それは生きる場であり身体が突き進みたいと思う生きる意味であり、其がなし得れることでしっかりと未来の人類と繋がるための方法であるのだ。
其が芸術であり宗教なのであろう。
僕のバックパックはアラヤシキと言う深い無意識であったのだ。
もう最初から身体が欲しているものは身体が知っていたのである。
其は決して思考だけでは気づくことさえ出来ないのだ。 立ち位置を同じくするには思考や感情の位置では不可能なのだ。
身体だけが知っている肚に落ちたときに一致する。
それ以外に立ち位置を揃えることは不可能だったのだ。
友達も、夫婦も、家族も、国家も、世界も危ういのは、結果身体性の欠落が生み出した結果なのであろう。 絆も肚からしか持続は出来ない。
原爆や戦争体験と同じく身体性も五十年もしたら風化してしまう。
だからこそ身近な子供たちに身体を張って生きている何かを、大人はお金を通過させないで、人任せにしないで、身体性で示して彼らの体の記憶にインプットし続けて行かなくてはならないのである。
此れは言葉を越えた超越的な言葉である。
身体性の無いものが無い物ねだりで脳内感覚だけで見えない世界と繋がっても其は愚かというしかないのある。
瞑想しようが精油を嗅ごうがもう僕らはネエイテイブピープルのように身体を張って今日の生活の糧を霊的動植物のテレトリーから運んでくることはしていないのである。
これこそが根無し草なのだと気づいた僕は、更にバーチャルな世界が自分に身に付けさせてしまった垢を捨てて南下を急いだ。
何時だって帰り道は早いのである。
何故なら殆どが折り返し地点を越えた辺りで、自分の場に戻りやらなければならないことを身体が思考に伝えているからなのだ。

二項対立の思考からの脱却。
其がアシンメトリーな脳だ。
其を使いきることが旅の凄みだ。
その時にはもう身体に強ばりなど一切存在しないのである。
誤解しないでほしい。
強ばりと言う感覚はあるのだ。
ただ其を筋肉痛とか股関節が硬いとかどの筋肉が弱いなどと言う単純思考には繋がらないのである。
繋げた瞬間に宝物は消え失せるのである。
評価も理由も語らないときに本物と既に出逢っているのだ。
その本物を感じている存在それこそが僕自信なのだ。
ならば全てをその自分自身で生きようと僕は決めていた。
其処には敵もないし得れない理由も言い訳も何もない真空地帯なのである。
其は真空な宇宙そのものであった。
宇宙は自分の身体性の既決の先に、存在していたのである。
全てを一分一秒を真空と言う無から零から生きること。
これこそがアシンメトリーな脳が旅をし続けていると言う事だ。
それこそが生きていると言う事だ。
それこそが生きる醍醐味だ。

僕の身体性が山形県東根市泉郷に帰ることを急いでいた。

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