あらえびすブログ

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昨日のブログでもご紹介した「オオカミを祀る三峯神社」を転載します。

オオカミを祀る三峯神社

日本の山々は深い森に覆われ、江戸時代まで森の王はオオカミだった。
人々はオオカミを、畑を荒らす害獣を退治してくれる神として崇めた。
埼玉県の三峯神社にはオオカミが祀られている。

さらにオオカミの変身したキツネ信仰、つまり稲荷信仰は今も立派に生き残っている。

三峯神社は、東京都墨田区から直線距離にして100キロも離れていないところに深い山々があり、うっそうとした木立に囲まれた聖地がある。そこはもう荒川の源流部である。
海抜1,000メートルの山頂部のヒノキスギの木立に囲まれた三峯神社の由緒書には、ヤマトタケルノミコト碓氷峠に向かう途中、山川の美しさに感動して、イザナギイザナミの二神を祀ったのがはじまりだとある。どこにもオオカミのことは書いていない。

しかし、オオカミの彫像は拝殿の両側、あるいは山門の両側をはじめ、至る所に置いてある。
オオカミを山の神とする起源は、おそらく縄文時代までさかのぼる。三峯山は縄文時代以来の聖地であり、その山の神がオオカミだったのであろう。

ところが、弥生時代以降、稲作を持った人々によって、この聖地がイザナギイザナミの二神を祀る神社へと変わり、オオカミは神の使いという地位に置かれたと考えられる。


オオカミは春先に山から里に下りてきて秋の収穫が終わると再び山へ帰るという。これは伏見稲荷のキツネと同じ行動パターンである。

縄文時代に山の神だったオオカミが、弥生時代以降の稲作農耕社会の進展の中で、次第にキツネに姿を変えていったのだろう。


このオオカミを神として祀る三峯神社は関東一円のみでなく遠く北海道にまで篤い信仰を集めていた。三峯講と呼ばれる講が組織され、この山頂の神社まで何日もかけて、参拝者が列をなして訪れた。今はバスでの山登りだが、当時は急崖に囲まれた山頂に達するには大変な苦労があったと思われる。隅田川沿いで生活する江戸の下町の人々は、この山頂部まで何日もかけて参拝に来ていたのであろう。


オオカミは森の生態系の頂点に立ち、畑や田を荒らすネズミなどの小動物を食べることで、獣害から農民を守ってくれる存在であった。

だがそれだけではない、実はオオカミは森そのものを守っていたのである。今や日本のいたるところで、シカが増えすぎて、幹の皮をはいで食べたり、若木や下草を食べ尽くし森林に被害を与えている。
かつて、こうしたシカやカモシカの異常な増殖に歯止めをかけていたのがオオカミだったのである。

しかし、オオカミは明治以降、獣害駆除が進められる中で、不必要な害獣として一方的に殺されていった。狂犬病がこれに追い打ちをかけた。そして、1905年(明治38年)を最後に、ニホンオオカミは本州から姿を消した。

オオカミのいなくなった森の中で、その代わりをしたのは人間だった。人間はシカやカモシカを適当にに殺し、大増殖をコントロールしてきた。

ところが高度経済成長以降、山村が荒廃し、オオカミの役割を果たしていた人間も森から出ていった。
こうしてオオカミも人間もいなくなった森の中で、シカやカモシカの大増殖がはじまったのである。現在、シカによる森の被害は深刻である。

上流部での森の消滅は、洪水の頻発と同時に飲料水の枯渇をもたらす。急勾配の河川の多い日本列島では、下流部に大洪水をもたらすのみでなく、上流部の森の破壊は天然のダムとしての森の保水力を失わせ、飲料水の不足となって都市の住民を直撃する。
隅田川沿いに生活する人々が、なぜ何日もかけてその源流部のオオカミを祀る三峯神社を参拝したのかは、その生態史的重要性からであった。
源流部で森の王オオカミを神として祀り森を守ることは、下流部の人々にとっては洪水から身を守り、飲料水を確保するために不可欠なことだったのである。それは単に隅田川沿いの人々だけでなく、日本各地に共通することだった。
オオカミは森を守り洪水を防ぎ、都市の人々に命の水を供給してきたのである。もちろん人々は、このような森や流域の生態系の保全を強く意識して三峰詣をおこなったわけではない。豊作祈願や個人の幸福と利潤の追求、さらに災害の回避が目的だった。しかし、その行為は、結果的に日本の森保全する面からも、理にかなっていたのである。