新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国の舞
昨日は、五反田アネモネさんでの、プレゼンワーク二度目を無事終え、格闘技系の集まりのワークで、名古屋に向かいました。
名古屋のワークでも、とても皆さん満足され、ホッとしております。
久しぶりの専門分野でのワークでしたので、とっても此方も楽しみにしておりました。
と同時に、武術も日々皆さんが研究されているので、僕の今のワークレベルがどれ程お役にたてるのかのも、ちょっとだけ心配しておりましたが、《場》を瞬時に設定して、そこに必ず《間》
を瞬間起きながら、自由に先ずは十二階の層をループで繋げて動いていくことで、ぶれない心と体が一体になって動いていくことに、皆さんとっても素直に習われていただいて、満足されたようでした。
そこで一気に《場》を縮小させて膝まづいたり、一気に場を拡大して立ち上がったりの動きも入れて、更に層を足して動きに上下の幅を導入するところまで、ワークは進められました。
その結果、正方形による地の意識に、円による天の意識をおろして、立方体と円椎の中に設定する、三角椎上下のの立体六芒星を、自由に腸思考で延び縮みさせて動いていたことを、結果発見できたのでは、ないでしょうか。
文章化すると、サッパリ理解に困る内容ですが、実は確実に早い動きを《場》や《間》を見失わないで動いていくには、ここまでの腸による思考が必要であったことが、体感出来たと、感じています。
専門分野をこなしているときは、結構意識できているのですが、一番スキをつくるのが日常の様々なシーンでの所作なので、僕が提唱する日常の所作を達人レベルに仕上げるが、今の移行期時代を利用しての一番大事な、技の習得という《場》に高めることがご理解頂けるのです。
そのように、身体が気づくと、この移行期はマイナスのストレスではなく、自分を磨く格好のプラスのストレスに転換されます。
何処に、自分に都合のよい波があっても、安易にそれに何時までものり続けるのではなく、クールに波の頂点を渡り歩くという《術》を身に付けれます。
そうすると、自分の特技に埋没する事でおきがちな、スキを一掃できます。
これこそが、善いも悪いもないという本当の陰陽の中道を生き続ける事になり、勾玉での陰陽の間に存在する、球体の波形の隙間に《場》を創出していけることに、自分を進化させて高めていける事が、ものに出来るようになるのです。
此れが得意だ!
此れが不得意だ!
此れは、違う!
此れは解っている!
此れは解っていない!
これこそが凄い!
この思考が頭の思考です。
僕で言えば、何時までも怪我して解ったを、売りにしていてはそこに安住してしまいがちな、特質に、自分が埋没してしまいます。
その瞬間、ひとつの平面な時間にしか《場》を設定できていないことになるのです。
重要なのは、怪我を知ったことよりも、何故怪我をしないと気づけないほど、自分が未熟であったかです。
怪我して理解したは、未だに祖の時代を引きずっています。
だから、家庭環境や今の環境、自分の過去に起きたことのせいにしている限り、無私の和多志には、何時までも到達できません。
今、これ程の財を持っているとか、こんな特技があるとか、これ程の人が気づけない事を自分だけが知っているとか、そこに鎮座して安住している限り、神社に行ってお力を貰い、神のエネルギーを貰うという、依存型の祖の時代を、生きていることになってしまいます。
皇の時代は、直ぐに結果を出せないことは、素直に自分が今やることではないと、自分が自分を説明するために持っている《場》に積み上げた自慢の種(マイナス要因もプラス要因も)を、潔く捨てて、零化しなくては、今も明日も存在していないのです。
ここですでに平面化で、今の自分を説明しているので、同じ平面上にしか、未来を産み出せません。
層の違いにドンドン進んで行くには、過去のデータベースを、全て捨てなくてはならないはず。
零化は、平面化の思考では、絶対に起きないのです。
今命をかけて、小次郎と武藏が闘っているとします。
両方達人です。
これでも怯まない、これでもスキが創り出せないという、絶体絶命の時に、経験則を全て捨てる勇気にしか、勝算は現れないものです。
今の、国が取り組んで全てのこと、世界中で起きていること、全てが何か違うよねと感じるのは、平面化での、手法で立体の時代を生きようと試みる違和感だと、感じます。
ですから、国が何をしようが、霊魂が何をしようが、誰かが何をしようが、そのせいにしている限り、層の違いにジャンプ出来ません。
先ずは己が過去のデータベースに囚われない、立体を自由に生きてやると、自分の価値を一回一回の場で、捨てながら進み抜く覚悟と実践なくして、到達出来ないのではないでしょうか。
一人王の時代。
部下を持たないが、王として生きる、それが皇の時代だと、僕は認識しています。
《アドベンチャー マーシャルリベラルアーツ ライフアート》(冒険心、武士道、過去の自分積み重ねた自分からも脱却出来ている自由な発想、それを生活で実践してアートに生き抜くという僕の造語です)としての達人を、孤高としてアラスカ大地に生きた狼や灰色熊、700キロのムース、そして空に生きた白頭鷲のように、完全に《個》を生き抜くとは、スリネケルがそこに《場と間》を一瞬生み出せる事を楽しんで生きれる心体を持たない事には、なし得れないことのように僕は感じています。
急遽、アネモネワークに参加されて、あまりに無心の無私で聴くことが出来なく、久々にNOを突きつけて、その後情けなくも退席されたHさんは、とっても残念でした。
それこそが、そこに《場》を生み出せない最高の事例であることに、御本人が全く気づけないからです。
その瞬間、何時だって自我を捨てて、無私に逆転出来るからこそ、その《場》に生き続けて生命を繋いでいける《間》を彼自身が見失った瞬間だったからです。
もしも武士なら、もうとっくに生きてもいない、自分であることに、素直に気付いて、己が己を磨く勇気の欠落です。
彼が自分で今重点をおいている、「徐福という存在への祈り」など実はマスターベーションで出来ていないという天から見た自分を先ずは素直に認めて、だからこそ何もない自分がいったい潜在的に何を持たされているのかを発見できるチャンスという恥をかいた《場》に、向き合うことがとても大事なのだと思うのです。
津波を間近で体感した者は、きっとそう思っているはず。
津波に背を向けって、ふて腐れて帰るようでは、次世代に何も伝えられない。
その自分が先程まで、ワークで「それが背中で大人が伝えれって言うことか、凄いねこのワーク」と、物知顔で安易に言ってしまった事さえも気づけていないのでしょう。
自分を説明するという、塵を全て捨てて、空の《場》で何が瞬間出来るのかを最後まで、自分に問い続けて、そこで何時までも出る未熟な己と向き合う事が、本当の優しさを身に付ける手立てではないかと思うのです。
最近では、ワーク中に習われるかたを退席させるような事がなかったのですが、そのときに、その《場》を嘘で流して僕がお茶を濁していたら、それこそ自分が自分を無私でかけている、ワークや伏流水の天職に、自我を持ち込んだ事になったでしょう。
一般のワーク受講者ならば、場を移動させて、流すという方法も自分に嘘をつかないで、術で《場》を納め流すは可能ですが、彼は世直しをしたいと言っている人間ですから、僕はその時の自分の役割という、瞬時に生まれた《場》にその時真摯に生きました。
それが、その時にワークにご一緒されていた、若きNさんへの僕のメッセージです。
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