あらえびすブログ

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新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞

四日ぶりに、気持ちのよい、変化し続ける自然界に戻って来ました。

そして先ずは、場に馴染ませるように、朝六時から開いている太田湯にザブーン!

都市では、殆どが変化しない、だからこそ自分が日常ドンドンぶれなくては、情報についていけなくなる。

平面だから、情報の前に、それも咀嚼する前に、その情報の前にも先にも横にも、ドンドン、情報がただの情報だけという実がない状況で、視界を妨げます。

けれども、自然界にいると、逆に変化しない自分を持っている事で、変化を見極められる。

自分が都会でぶれないためには、衣装がものを言う。

しかしそれは意識と無意識のコラボでなくては、ならないと僕は感じます。

バリアでも主張でもない、先ずは自分の光と衣装の闇、そして自分の闇と衣装の光が、勾玉になっていなくては、情報に潰されるからです。

多分思うところ、昔の装束はその役割を果たしたのだと、思うのです。

けして、変身願望とは、大きく異なるものでしょう。

光と闇。

光がましても、闇は見えないだけで、そこに存在している。

その闇をどのように認めて、共存するかでしょう。

それが己のたち位置で出来ているのなら、きっと外の世界に闇が勢力をまして現れることはないのではないのかと、最近常々感じるのです。

景子とも昨日、カフェでその事をジックリ話し合いました。

自分のたち位置に、闇が勢力を増さないためには、本心本音で怖がらずに生きること、これに尽きるのではないでしょうか。

例えば、メイン料理。

肉や魚が主役だとします。

しかし、あってもなくてもそもそもよいと感じる、付け合わせが多すぎです。

よく訪れる、有楽町のボーノボーノという、イタリアンは、付け合わせも主役になっている。

つまり存在とは、そのようなものでは、ないでしょうか。

自然界とは、自と在るということ。

誰かの為に在る前に、在る事がとっても都市では、抜け落ちやすい。

山が主役であり、川がしゅやくであり、野性動物が主役であり、木々が主役であり、花が葉っぱが茎が全てが主役になっています。

それが又全体になって、全体が主役になっています。

このような、親子、夫婦それが皇の時代の在り方になっていく。

この一週間、僕は大きな川の前にいます。

何としても今週、ここを通過しなくてはなりません。

それを五月には、渡りきったと、ご報告出来たとき、結果自分はぶれていなかったということ。

結果が付いてこなかったら、自分がまだまだ自分を闇に紛れさせている証拠

本当は、光の中にあるからこそ、光の威力が高まり闇とバランスがとれるのに、評価を他者に依存することで、隠していたということ。

試されます。

己の大地が。





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