いよいよ木村先生とラプトさんの対談の日がきました。わざわざこの為にSkype出来ないので山形へ。
僕がラプトさんと対談したのは、六時間✖確か三回。
しかし、木村先生にはお年的にも、顔が見えない存在と話すは凄く苦手だろうから、長くても四時間どまりでと感じています。
明日か明後日には、記事になるでしょうから、凄く楽しみでなりません。
僕は僕で、ラプトさんとは、多分陰謀関係にはあまり受けないだろうけれど、沢山アートについて対談したいです。
何故なら、まだまだアートは付随モノとの認識ですが、それを脱してきたヨーロッパの庶民や、最近書いている全国中に広がっいた庶民蝦夷系の生き方は、まさに日常の中にアートな精神が息づいていて、そこに一致点を感じるからです。
僕としては、ウルフや猛禽、感覚的に素晴らしい身体能力の高いベンガル猫や蛇のポールバイソンなどが、当たり前に様々な御互いの間で生きている毎日の様々な姿を見ていると、まさに野性の間こそを身につけるが、進化であり最大のスピリチュアルだと感じるからで、だから僕が向かいたい方向は昔も今も全く変わらないけど、更にはっきりと行き着くべき場が今では、鮮やかに見えています。
共に行動し、ウルフや様々な生き物から触発された眼差しから、お山や伏流水樹木をみると、自分の無意識が意識化されて一気に視界が広がります。
その時に、尻尾がないのに感じられ、その尻尾のベクトルと手足ねベクトルが、一致しだすのです。
冬に遊びに来られる方は、是非とも三パーセントウルフが入ったアラスカンマラミュートの、世界の認識の仕方と、全く違うウルフの世界の認識の差を、肌で感じに来て下さい。
我々が忘れた、一番重要な何かを、それは最近の題材にしている、幕末の頃にまだまだあった、低所得なのに満ち足りて幸せな何かがそこには間違いなくあるその姿の、更に深くに存在する何かを自らの中に再発見できる瞬間です。
まさに無意識が、意識化に、野性によって引っ張り出されてきた、その瞬間ですね。
その瞬間、見つけようとしても見つからない、鍛えようとしても鍛えられない、野性の思考が自らの中から抽出されています。
その瞬間、本当に満たされて、そこに全てを感じないわけには行きません。
これは残念ながら、野性に近より、野性も呼応しそうな人類を瞬時に見いだしますから、その相思相愛的な一瞬に架けるしかないので、努力やいつかと言う時間は全くよめません。
実は、自然界では当たり前。
恋愛なんて、まさにそれでしょ。
自分が好きだから、今でもあいつは好きなはずなんて、例え一緒に暮らしていてもわからない。
長く付き合おうが、今出逢おうが、関係性は一瞬の出来事。
その一瞬の積み重ねで、始めて野性は、僕らの中にも野性を見いだし、歩むよるのです。
ただし、だからといって、此方が一瞬を見逃し、分別知になった瞬間には、彼らはどんなに以前親しくても距離をおきます。
しかし、否定ではない。
いつでも、瞬間を捉えて生きだすと、彼らは又距離を縮めます。
それが染み付いているが、まさに蝦夷のDNAです。
これは思想が同じとか、尊敬しているものが同じとか、良いやつ悪いやつ、一切合切関係がない、一瞬そのモノを捉える続ける事が生きる全体という生き方が、野性の思考による無分別知の球体思考でありそこから発する幾何学的身体所作です。
即ち、巨大立体型ナンキンタマスダレを何名かで、持ってバランスを維持するは、瞬間瞬間を捉えるしかない。
まさに、日本の大道芸はその瞬間を繋げれるDNAを有する、パフォーマー。
シルクドソレイユやコンテンポラリーバレエも、ヒッブホッブも、形式ではないクラシックバレエも、武術も、オーケストラも、ソロのビアノも、瞬間を捉え続けるしか方法がないのです。
瞬間の積み重ねが、結果を生み出すだけで、結果も瞬間でしか実はない。
だから、他者を決めつけるは一生涯出来ない。
よって、ブレない。
瞬間を捉えていなく、結果を掲げての否定したりは一切合切出来なくなる。
何故なら、次の瞬間、全く違う場になっている。
そして、それがアートでもあるのですよ。
デザインは都市部を作りたがる思考から生まれ、大和族や出雲族が大好きな世界。
都市部の中にある自然。
人類の中に存在させる自然。
しかし蝦夷は、自然のなかに慎ましいけど楽しいと幸せと感じる人類を生きて、それがアートになるのですね。
自然よりも、下にいることが楽で幸せ。
だから、自然界を守るなんて思考はない。
蝦夷には鎮守の森は存在しない。
不作も不幸も、笑ってしまうだけ。
それだからこそ、君臨する支配者やリーダーを必要としない。
江戸が素晴らしかったのは、支配者やリーダーがどうあろうが、自分達が本物のリーダーとして、誰もが一目おくのは自然だと生きている庶民が、共存共栄していたから、あれだけ海外のNWO目的のイルミナティ御一行様からみても、独裁政権である日本の中に、何故あれだけ幸福を感じている低所得層ばかりが日本中にいるのか、心意気は貴族と変わらない日本庶民ばかりなのかと、感動したのですが、それは野性の思考が当たり前に庶民が持っていた当時の日本人と、そのように日本人を育てた自然への畏怖の念当たり前なモノなのに、無意識化せずに意識化させた日本の自然の力だと思うのです。
だから自然の力、思考こそを、今無意識化の沼から、意識化に引き出す時にいると感じているのです。
球体思考幾何学身体 野性へのワークと、ネット有料配信に向けて、野性を付加させて頂きました。