あらえびすブログ

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個で立とうとしている人達と、本気の特区を創りたい

アラヤシキは、深い深いDNAの記憶。

昨夜(殆ど毎日家に居るよりも居場所があるらしい)みんなの家に来られた、地元の林業のKYさんが、何時ものように差し入れの晩御飯と、一緒に、僕は見逃したNHKのグリーランドの、イヌイットの番組をDVDに焼いて持ってきてくれました。

今読んでいる、ジャレットダイヤモンドの《文明の崩壊》のまさに今読んでいるグリーランドの、イヌイットは生き抜けてでも現在のノールウエイやスウエーデンからの移住者は、そこで暮らせずに遺棄した場所でした。

まず新しい生き方の特区を創るときに必要なのは、自分の都市部マネー資本主義の恩恵を一度捨てて、本当に自分はどんな生き方がしたいかと、それがマネー資本主義では、非常識でも、自分のアラヤシキと出逢うことが、不可欠です。

僕もこの《森と泉の縄文トラスト》を未だ弱小でもどうにか此処まで持ってくる間に、結果それまで持ち込もうとした価値観は、全部一度手放されました。

都合よく、融合させようとしていた伊豆の頃は、そこに入るために伊豆の別荘族と地元の部落民の両方を知りたく、四十七で消防団に入れていただき(四十七は、一度分団長をやって引退の時期ですが、そこから新人での入団)とにかく慕われ理解して頂くために、自分を外して二十歳の先輩よりも走り、パシりもこなして行きいつのまにか東京から田舎暮らししたい事で、別荘地に移り住んで来た、都市部でだからこそ通用する、躍りや体の使い方の先生で食っている変わり者という立ち位置を、ある意味アイデンテイテイーに無意識に使っていました。

その頃から、自然素材の家を建て、500坪の土地を鍬のみでならし、始めてのチェンソーを覚えて細い手入れされていない檜を伐採して、スコップ一本でそこいらじゅうに根深く蔓延る、すすきを根こそぎ抜いて、段々畑作り、山羊と鶏を飼い、自分の使う家具を作り、薪割りして、山羊を絞めて頂き、イヌイットに憧れる自分は、カヤックやってと、如何にも自分の本質に近づいても、所詮それで食ってはいない引け目を増幅させながら、そんな生き方も無意識にファッションにしていた気がします。

始めは仕方がないのでしょうが、それでは、アラヤシキとは繋がらない。

それはマナシキ。

そんな浅いマナシキでは満足しない、深い所に住む魂の自分。

けれども、理由を見つけては、地元消防団にも協力して、伊豆の山を復活させるNPOも作り始めこれで良いのだと言い聞かせても、ムクムクと立ち上がって来る非常識。

そして六年目、自生していたけれども、檜に阻まれ大きく成長できないでいた栗が、ドンドン増えるうちに地下水脈が戻ってきた時に、非常識側に、僕は思いっきり引っ張られこの限界集落
引っ越して来ました。

今度は、廃屋を自分の手で住みやすく改良すること、本気で入植するような生き方に入ること。

そう言い聞かせても、新しいイノベーションにはほど遠く、相変わらず全国に教えに出向き現金稼いでの田舎暮らしでした。

それでも徐々に元々此処に居て、此処に居ながら食っていける事を見つけてレールをひいて、その機関車を走らせない事には、森の復活と水源地を守ることは出来ない、やることや、仕掛けることは山積み。

もう両立は無理。

このきっかけは、静岡の富士山の回りが、中国に約三割買われてしまった時と、台風で広大に崩壊する針葉樹の森とであうたびに、本気でやる仕事。

これは国にさえも逆らいながら、民の生きるが実践出来る場の創造という、途方もない作品へのチャレンジでした。

まるでお山五個分の画用紙に、絵を描くようなもの。

けれども見事にはまりました。

何度も下書きをしては消し、色をつけては捨てて今がありますが、やっとこそれがもう消す必要性も書き直す必要性もない状況になるのには、それまでの自分の常識を一度手放して、イヌイットの魂として、毎日ここでの生活に必要な作業が、アイデンテイテイーではなく、まるでトイレに行って用を足すように、身に付いたときでした。

だから、方法でも、精神論でも、スピリチュアルでも、ファッションでもない、自然の恩恵で生きる心が身に付き、ジワジワとアラヤシキの底から、それが好きでそれでないと生きれない魂の本質と出逢ってからでした。

よく時代を変えるために、フリーエネルギーだ、共同体だ、自給だと、方法から入ってしまう。

それが気を散らす。

そこに有るもので、思いっきり心が奪われるものに、自分の生きるを架けてみる。

そこにブレがあったら、何時までも堂々巡り。

此れが新しい生き方の場を創る、創りたい時のたった一つの解答であることが、今ではよくわかります。

僕は、お山に降る雪を愛しています。

その雪とお山全体の生き物ががコラボして創りあう、伏流水に本気で惚れています。

そして、此れを潰したら、僕の美学に嘘を着くことになる。

本物のアーテイストになりたい。

動物や植物や菌類、皆が生き生きと息づく世界を創造して、それを俺の作品と呼ぼうと、他の表現媒体を捨てたとき、そこからやっとこ人に惚れるに行き着く、原型をも知りました。

それまでは、自分の都合での、惚れるでした。

この時代変革の時、創造主が沢山必要です。

本物の創造主は、方法論や相手のアイテムで繋がろうとしません。

予定して、調和を試みることが嫌いです。

根っこにある、本気で愛しているモノがそいつに与え身に付かせた、真の姿です。

DNAの螺旋と同じく、右が左へ、左が右へと自由に行き来する、それが連鎖しあって、結果調和が生み出される。

この真の姿は、結果調和されている。

右を此のように使って、左を此のように使って何て言う計算では、調和が生み出す結果の芯棒は何時までも身に付かない。

嫌われようが、孤立しようがそれを思いっきり引き受けて、秋晴れの清々しさ同様に、雷も台風も、温暖化も、寒冷化も大雪も自然の恵みと本気で受け取れるか、それだけだと思うのです。

皆、本気の逞しさを持って行き始めよう。

電気が停まろうが、交通がストップしようが、何が起きても自然相手に生きていける、逞しさを。

そして、そのたち位置から、マネー経済が動いている間に、里山経済動かしながら準備しようよと。

マネー資本主義で、お金つくって、その原資で新しい生活は、必ず躓く。

それは、僕がやったように、都市部のご都合主義。

燃やす薪がないなら、大雪でも切り出して、薪割りして、乾燥させた僅かな薪に火をつけてもらって、乾いてもいない木を燃やせるほどの、例えを活かせる生き方。

だって変革は、前の常識が崩れて、今度は此方ですと、O'sの魔法使いのエメラルドシテイーのように、ご都合で起きやしない。

ある日突然、もう家畜に餌をあげれませんとなる。

今の僕らは殆どが偽の常識を押し付けられた、家畜です。

家畜が野生に戻ることが、どれ程困難かは、誰でも想像つくでしょう。

けれどももう間もなく、望む望まないに関係なく、家畜は自動的に生きれないように、人類牧場は破綻します。

破綻してから、一歩踏み出すか、野生なら自分の直感信じて、牧場から出るか。

どうせなら、自分で決めれる、絶好の機会を貰っているとも言える。

僕は、変人だろうが、非常識だろうが、それで孤立しようが、牧場はもう嫌です。

もう野生動物は、陰の道に移動ほぼ完了しました。

新しい環太平洋の時代に入るために。

大西洋の側にいて、利権を牛耳った昔の王族の家畜から、いよいよアメリカだろうが、中国だろうが、日本だろうが、インドネシアだろうが、シンガポールだろうが、映画《人類資金》で言うなら携帯電話さえ、写真さえ撮したことがない、世界中の七割半の民の可能性こそが、野生です。

僕はあえて、マネー資本主義を捨てて、この七割半の仲間入りをしました。

家畜の牧場から出るときに、家畜が自分で食べる飼い葉をリヤカーで引っ張って野生の仲間入りを希望して来たら、漫画でしょう。

けれども、全てをパイプラインにして、全てを管理して、管理されて、その上で良いとこ取りの自然界だけ、借景のように取り入れたいは、猿の檻に描かれた、ジャングルの背景画でしかない。

ナチュラルに生きるって、先ずは常識捨てて、思いっきり今の構造からのアウトローを生きなきゃ、絶対に身に付かない。

最近いよいよ、森と泉の縄文トラストが大きく動きそうなのは、僕が直ぐにあった人にも、見せようとも隠そうともしていない、野生がアラヤシキから見えるから。

それが身に付き始めただけ。

ということは、自然界の力だってこと。

僕はちっとも偉くなければ、立派でもでもない。

ただ必死に、野生人類として、獲物をおっているだけ。












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