新しきlターン お山繁盛コーポレーション
遊動民から定住化で生まれたものは、國分さんが仰るように、暇と退屈です。
原発や様々な問題は、関野さんのグレートジャニーを見ても解るように、定住化して生まれた余暇に、多くの民が一方通行の余暇過ごし方カタログから、欲しくもない物を消費させられているという、現実です。
車の新型モデルも然り。
サプリメントも然り。
根本の理由まで、思考を駆使して、辿っていかないと、僕らには消費から浪費への道を開拓できない。
浪費はいつか止まります。
消費は永遠に続く。
これは、グローバル資本主義にとっては、最高の状態。
趣味もその可能性が大。
ここで目指すのは、質素な暮らしに戻ることではない。
縄文的な自給生活への提言でもない。
それは、Uターンになってしまう。
目指すのは新しいIターンです。
愚かな気晴らしにおいて重要なのは、《熱中出来ること》と言う要素。
人間がハンテイングしても、お金を賭けずにゲームをしても、気晴らしの目的は決して達成出来ない。
熱中出来るためには、命がかかる大きな熊を崖のような危険な場所で射止めたとか、破産しそうだという、負の要素が必要になる。
だから気晴らしには、常に負荷を求めてはじめて成り立つという、僕らの心の構造がある。
何故、何をしてよいのか迷う人が多くなったのだろう。
ゆえにスピリチュアル産業は大流行である。
パスカルが言うように、ニーチェが言うように、何をしてよいのか分からないという、退屈の苦しみから逃れるためであれば、外から与えられる負荷や苦しみ等ものの数でもない。
自分が行動へと移る理由を与えて貰えるなら、人は喜んで苦しむ。
國分さんもお勧めの、ブラッドピッドが助演の《ファイトクラブ》を是非とも見てほしい。
魂の自分と出逢うという過程では、魂に、現在の自分が支配されてしまうことが起きる。
戦争やテロ、昔の学生運動、もしかしたら今の政治、そしてご多分に漏れず、僕のこの活動も心の背景には、常に苦しみが前提としてあった。
ヤット過去形で言えるのですが、敵ありきの自分解釈では、絶対に素晴らしい浪費家への道は始まらない。
本当に旨いビールを飲みたいときに、僕らはそれとであったのなら、必ず満足が生まれる。
商品が良くても、シュチュエーションが良くなければ、この旨いから来る満足は停まる。
けれども、飲んでも飲んでも満足しないのは、退屈からのビールゆえ、ビールでないと感じるとコーラに、コーラでないと感じると、今度は居酒屋を出てカラオケへ。
本当は何が欲しかったのかさえ、見うしない、思考を停止する。
そこに僕らは、とめどもない、時間とお金を使わされている。
僕がこの完全なる伏流水をごくごくと飲んだとき、その回答のスイッチが一気に入った。
本物にであったとき、はじめて思考が楽しくなった。
今までは、苦しむ為に思考をしていた事にも気付いた。
勿論人は、余計な事はいちいち考えないで、生活できるように、発展してきた。
出来るだけ余計な事は、考えない事を目指すのが人間だから。
けれども、原発以降ある意味では、お陰さまで、僕らの中に動物思考が生まれだした。
僕が完全伏流水を飲んだとき得たのは、動物もこの旨いを感じているのだろうなという、感覚。
そこには、代替思考は皆無。
代わりに何故旨いのかという方向にスイッチが入る。
探求である。学習である。本物の興味である。そこに気晴らしは存在しない。
そして、何故旨いと感じる自分が居るのかと、始めて新しい側面から自分を知ろうとしている。
其が浪費家への一歩。
僕は54歳。
理念を強要されて生きてきた世代。
僕らよりも上の世代は、まだまだ理念を追求する。
此れから新しい仕組みを作るのは30代、20代、10代である。
そこに道を作ることが50代の役割であると、僕は思うのです。
だから、若者と一緒に考えたい。
君たちこそは、僕らのように暇潰し産業に翻弄されるなと。
だから自分に染み付いた理念探しは、拒否したい。
「理性が大切だ」「ヒューマニズムが必要だ」「民主主義を守らなければならない」「平和を維持しなければならない」と理念を僕らに語りかけ、押し付けて、其を信じること守ることを強制して存在してきた。
僕もこれ又ご多分に漏れず、バレエを教え、振り付けをしていたときは諸に理念を押し付けてきた。
けれども原発で証明されたように、理念は何の役にもたたなかったではないですか?
近代文明には何か、理念の先っぽにある、根本的な問題があるのではないですか?
けれども、殆ど誰も答えられない。
其は39歳の國分さんが仰るように、至極当然である。
僕らも含む上の人達は、理念を信じていただけだったから。
言葉を失った、僕らも含むせだいは、こう言う「大切なものは大切なんだ」と。
僕らも含む上の世代は、「お前たちは俺たちが作り上げてきた理念を守れば良いのだ」「お前らにはもうやることがない。だから俺たちがつくってきたものを守れ」「若い者は何にも分かっていない」。
原発反対者にも、その理念に縛られているものが、沢山いる。
理念は、又違うピラミッド支配構造を作る。
これは、第一次世界大戦のドイツ。
いまの日本と、そっくり。
そしてイデオロギーは左翼を登場させる。
けれども、その世界も若者には、ちっとも魅力的では、なかった。
根本として、僕らの心を見破らないと、又繰り返す。
毎日僅かな快楽を得て暮らして、平等な和で何も起こらない世界。
これでは、心や魂は奮えない。
これを何故取り上げるか。
モリスが言うように、「革命が起こってしまったそのあとどうしよう」、これが一番大事だから。
世の中の価値観の変換を目的にするから、いつまでも政治に頼る。
原発は、勿論止めた方が良い。
これは、反対も賛成も越えている。理由など要らない。
家にペットでマンモスを飼わないのと同じ事。
だからモリスの言うように「私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾らなければならない。」
では、自分にとって薔薇は、綺麗なお山。
それが禿げ山では、命だけ保証されても、ちっとも満たされなく、又気晴らしに人生を使うから。
今の我々にとって退屈の反対は、楽しいではなく、興奮出来ることだった。
快楽や楽しい事を求めることが、如何に人間にとっては、難しい事か。
だから如何にして、楽しみ快楽を得るかではなく、如何にして楽しみ快楽を求める事が出来るようになるかである。
だから僕は、都市を離れ、伊豆の提示された楽しみの世界を六年で捨て、この里山に住んだ。
快楽を求めることが出来るように訓練学習する為に。
それは、定住化で失った快楽を得るための自分というツールの回帰であり、新しい遊動民への入り口が里山だとわかりかけていたからであった。
しかし熱意で幸せにはなれない。
ラッセルが気付いたように本物の熱意は、逃避や忘却を求めない熱意でなくては、ならない。
ロマン主義即ち、「私は皆と違う、もっと私らしさを求めて生きたい」を捨てて、「お前は自分のいる場所で満足して、高望みは生きるな」これも良くきく心の葛藤だるが、そもそもロマン主義を持つ人類には、無理なこと。
時として熱意は、行きすぎたロマン主にも帰着する。
そしてまたイデオロギーを作り出す。
その思考は、間違いなく、定住革命から始まっている。
この國分さんの思索には、大賛成である。
たかが定住化して一万年。
399万年、人々は暇をもて余さない、遊動民であった。
その頃の思考を学ぶしかない。
定住化したくても出来なかったというのは、我々の定住化史上主義の偏見。
僕らは肉体的、心理的、社会的能力や行動様式は、むしろ遊動生活に適している。
だからこそ399万年も遊動民を生きてきた。
しかし、環境の異変で、定住化農耕生活を余儀なくされた。
だからこそ、定住化したけれども、農耕してない、先住民、日本ではアイヌの思考にヒントがあると思うのです。
つまり、農耕していない縄文の遥か前から考えるなら、食糧生産は、定住化の原因ではない。
現在の遊動民研究で言えば、移動は僅か数百メートル。
遊動化は、実は食糧に困らない。
定住化の方が実は食糧に困るのである。
人間は、直ぐに周囲の環境を汚染し、資源を使い尽くすからである。
天気が住みづらくなれば、ある程度住みやすいところに移動もする。
いまは、ワザワザそれを余暇として、二、三日長くて一週間。
海外の一ヶ月位のバカンスは、上手に遊動化を取り入れている。
誰もが遊動民を味わえる、安価な手作りの別荘を持っている。
日本の別荘感覚とは全く違う。
話は戻るが、寒冷であった当時の地球の中緯度では、草原や疎林が広がっていた。
そうした開けた環境では視界が広く、それと共に狩猟の技術を発達させて暮らしてきたが一万年前の温暖化と共に、森林が拡大大きな動物が居なくなり、鹿やイノシシと小さな獲物に変化して、貯蔵が必要になり、移動が妨げられ定住化を余儀なくされた。
今がミニ氷河期へ移行時期。
即ち定住化が終わる。
新しい思考が必要だ。
定住化しなければ、原発等ない。
社会の仕組みは大きく変わる。
明日も一万年以前を考察したい。
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