新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞
今東京に到着です。
天気の悪い、東京はやはりエネルギーを感じない街です。
昨日のblogを書きながら、重要な事に気づいてしまいました。
予感的なものはあったのですが、そもそも自分を、社会に氾濫している言語肩書きで説明するが大嫌いなので興味がなかったのも事実です。
それと同時に、やっと自分が実はこう言うことをやってたのかという、結果としての気付きでもありました。
本当に最近、そのような事が多くなっています。
今日も《野性の経済学》を通して、自分の潜在意識を紐解きたいと思います。
実は僕は、シャーマンとして結果生き始めていたという、事実への気付きでした。
僕は人の社会にのみ生きるシャーマン的な方々には、本当に興味がわかなかったのです。
と同時に
だから、まさか自分が、シャーマン的な事に向かって生きている気は、零に近かった。
むしろそうなりかけると、意識的にシャーマン的な自分を抑圧していたと、感じていたのです。
もうひとつは、祖の縄文時代のシャーマンや、祖の弥生時代のスピリチュアルで特に市場を開拓しやすい都市で、お仕事をされて来られたシャーマンしか、知らなかったのでしょう。
そこでフッと想ったのが、きっと皆さん当たり前だよと、仰られるかもですが、《空海は早くに現れてしまった、皇の時代のシャーマンだったのだ!》でした。
彼は水を通して自然界を納め土木作業の指揮を執り、コミューンである高野山建造には安易な投資による建築せずに会員の意思と汗と創造力で作り上げ、そこに自然界からの祈りをベースにそれ事態を人々に畏怖の念から畏敬の念に昇華させるためにこそ、祈りを使った。
昨日も書きましたが、自然界の中の敵対したくなる物を、層の違いに違和感を感じない《場》に導き、そこでねじれ構造で逆転させ一気に敵対する物を味方につける《クラインの壺》としての身体所作を身に付けない限り、絵にかいたぼた餅になってしまいます。
最近の身体ワークをお受けの方は少しはお分かり頂けると思いますが、層の違いを緯度や経度と共に一体となって動けるときに、空間は何時でも何処でも零化できてしまうのです。
これは、気持ちで言えば、敵対する気持ちが殆どない状態。
僕はこれを身に付けるべく、山形の泉郷で冬に約六ヶ月雪掻きをするのですが、伏流水の活動を本格的な自分の完全ピュアなソールワークにすると決めるまでは、夜中に星を見ながら屋根の雪降ろしをしたり、朝に野性動物の足跡や気配を感じながら除雪作業をするとき、スッカリと敵対するような「又今日もこんなに降りやがって」という気持ちは殆どそもそもないのですが、完全に景色や空気、気配を楽しみ、無意識に体を使っているのです。
即ち無意識で雪掻きが出来ている、零化の証です。
しかしそれでは、敵対を零化させれただけで、まだまだ味方には転化出来ていません。
何故空手よりも、植芝盛平大先生の生き方に感銘を受けて合気道に進んだのかも、この使い方を身に付けたかっただけ。
躍りの世界に行ったのも、身体の使い方を教える仕事に行ったのも、伊豆で始めての自然の中に暮らし始めたのも、山伏修行をしたのもETC、全てが敵対から零化、零化から捻れ構造で味方につけるという、野性の科学が生み出す野性の経済学を身に付けるためでした。
伏流水の活動を事業化で来はじめてきたときから、雪が素晴らしい水を1500年後に創ると見えだし、零化が味方のレベルにねじまがって、贈り物になったのです。
武術の術で言うなら、敵対する気持ちを相手ではなく場を操ることで零化に導き、そして捻れ構造から(ここが大体が関節系の術に感じるのですが、実は全く違うのです)一気に味方に変換すると(この瞬間力を出すのが《愛》だと大先生は行き着かれたのだと感じるのです)、敵対したと捉えたのは雨嵐を敵対した己。
その己が突然贈り物に捉えられると自然界は拍子抜けする。
その瞬間自然界に愛の波動を還してしまうと、それが恐ろしいほどの気の力を生み出すのです。
これは、高度な躍りでは、すでに使われています。
シルクドソレイユとかも、そのレベル。
では、これを経済という土俵で如何に使うか?
野性の経済学は、今身体意識を通して、新たな土俵を構築し始めているのです。
そして、概念の言葉でそれはうまく表現することが、とても難しいのです
僕のワークも然り、blogも然り、アラエビスの事業も然りdす。
昨日に引き継いで、カタラクシーに入りますが、捻れ前のカタラクシーを《カタラクシーA》、捻れ後のカタラクシーを《カタラクシーB》とします。
カタラクシーAは、欲望の欠如が本質です。
そして欲望を満たすものが、山ほど溢れているのに、何時も足りていない。
商品、モノが市場にあるほどに、逆に何時も足りていない。
ですからカタラクシーAは、非連続的な切断された固体の集積でしかないのですが、それを扱う人の心は連続した流れを持ったものです。
買っても買っても満たされない、だからこそ売れて経済が動いた今までは、流動的な心が非流動的な市場に乗りきれないくせに、いつか乗りきれると永遠に探し求める事で生まれ、その分断されたモノが世界中を繋げてしまったのが、グローバル自由資本主義だったわけですから、精神病も当たり前。
終わりのないゲームをさせられていたのです。
人間関係も恋愛もビジネスも教育も、この図式から脱却できてはいません。
山形泉郷に作りたい、サドベリーバレースクールは、今のところ僕の中ではピカ一です。
話を戻すと、モノが人の心を満たすことは出来ないように、実は作られていたのです。
モノを市場に出した瞬間、それは非連続になるしかない運命です。
だからこそ次から次へと新機能を付加する。
このギャラクシータブレットも同じです。
モノは真の欲望の対象には、決してならないどころか、何故か手元にモノをおいて、欲望の直前まで近づくと、不思議と真の欲望が更に遠ざかるのです。
そしてその隙間を、永遠に別のモノで埋めようとする。
恋愛の本質を見極めずに、今度は子供という存在を無意識に欲望の対象にすり替え、そして又子供にがっかりさせられたと家からも出て社会貢献に汗を流す。
ですから結局欲望が欲しているのは何か?から、今きちんと向き合って始めないとならない重要な時期なのです。
これがトーラスの表面です。
地球もトーラスですから、今我々は表目をウロウロしている。
それを捻らないダイレクトに感じると、恐怖と怒りに変わる。
陰謀説が好きな方は、まだまだ捻れないだけだと感じます。
愛だ愛だと捻れた後の言葉を、捻る前に発しているスピリチュアルもトーラスの表面だけです。
欲望はインドではリグヴェーダとして表しています。
女性の性器はまさにこの捻れ構造の《美》の姿でしょう。
昨日は、もうひとつ別の近くの里山に行きました。
この山神さまに奉られている男性性器は、人以上の大きさで人のクラインの壺的な、捻れから生まれるエネルギーへの、大きな大きな祈りを感じとりました。
写真は今度載せますね。
さてこの欲望を押さえ込まず、暴れさせずに連続性のなかで、それは自然の氾濫を味方につけて人が生きていくためには、ここで捻れ構造をしっかりと磨かなくてはならないのだと感じる朝でした。
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