新しい蝦夷が創る宇宙国建国までの舞
さて明日のお昼から十一日デズッパリ。
那須の文筆家で音楽家で大工の高橋さんから、淡路島オノコロ島での春分祭ご招待受けましたが、残念ながらハナちゃんの出産予定で、どのようなお祭りか見に行くことが出来ません。
とっても残念です。
もうお腹もオッパイも大きくなって来ました。しかしハナちゃんの出産は、とっても楽しみであり、僕の《山と泉のトラスト》には、なくてはならない重要な物語を生み出してくれます。
そのようにタブレットを打ちながら感じたのは、僕のこの取り組みには、自然発生の物語が点在していると言うこと。
水を山をどうにかしたいとの積年の想いでの、山形東根泉郷への魂の帰還でしたが、そもそも自然に水源地に出逢わされ、其処には毎日微妙に変わる様々な物語が点在して、今を創っている。
だから、その部分を飛び越えた物語は、一切必要ないのですが、ついつい都会にいると、物語も意図的に作り上げなくてはならなくなる。
その時当然目線は、《和多志》ではなく、《私》になってしまう。
昨日指摘した《わの舞》の現状での危険性は、其処にあると思うのです。
円の中から、今の低俗な僕らが一つの到達点を、ピラミッドの頂上とその先にある逆ピラミッドを、空中に描くことができるのであろうか?という疑問符です。
絶対に仲良しこよしで、横で手を繋いで円形になっていれば、縄文や縄文以前に行けるわけではない。
円の中に斜め四十五度のベクトルが交じりあう一点を、全員が一瞬で見いだせたときに、言葉を越えた和多志へのお役割メッセージが、円を囲む全員に降りてくる。
そして、他の方のお役割も、その集団がどのような全体意識での方向性を持っているのかも、言葉をかえさないで理解することが出来るのです。
まさに植芝盛平先生は其処を操っていた。
即ち集合意識を操っているのです。
所謂、工場に火事がおきて、全員同時に火事場のバカ力が起きたようなもの。
それが舞。
武術は設定した、ベクトルの交じりあう中心を、一瞬で変更させる。
その訓練と、同時に頂くメッセージの共有が、躍りだったと感じるのです。
それは、日常当たり前に、僕らの人間界以上の起伏にとんだ物語に始終包まれていなければ、斜め四十五度の一点は見えないのだと感じるのです。
例えば熊を生活空間の側で見つけてしまったとき、見つけた方向側の、例えば右側のビジョンの中に斜めの線を描いているはずです。そのときに地面側の正三角形に自分をおいて、そして逆向きの正三角形に熊を起き、その斜め四十五度の境界線のベクトルを隙間にして、いざというときに向かう方向を割り出しています。
此れは、都会や都市構造の東根駅前でも起きません。
せいぜい交通事故に合いそうなときです。
その隙間のリフトで、熊の情報が占めている正三角形を逆ピラミッドの逆側までリフトする事で打開策が浮かぶのです。
このようにベクトル平衡体の面を様々に動かして創るパズルがあってこそ、僕らは思考することが出来ているのです。
ですから円はゴミ箱、正方形は安定、動きは平行四辺形から生まれ、細胞分裂のように正三角形×2になったときに又其処に新しいベクトルが生み出されるのです。
それを体で表現するが《舞》です。
それがピカソの絵です。
ですから、もっともっと、本当に動くことの形が見えないものと繋がるためには、とても重要であることを、僕らは気づかなくてはならないのだと感じます。
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