あらえびすブログ

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ナマを彩る言霊から捉える入り身投げ そして他者と関わる愛

 植芝盛平合気道開祖は「愛」がなければ技はかけれないと、常々おっしゃられていました。
では心と体の動きから「愛」とはに行き着いた考察をしてみたいと思います。入り身投げが基本であるとの言葉に「愛」へ通じるヒントがありました。

体内部と外部の接合や右と左の融合、上下の交差などは、昨日の例での通り、入り身の感覚でであると思うのです。
合気道にある入り身なげも、自然界と人体の関係同様に今はじめてわかってきました。
感じ取れてきましたと言った方が良いのかも知れません。

アイヌ後で「イリ」とは、水が湧き出る場所です。
僕の住む部落も「イリ」を「入り」と書きます。
此処も元々は縄文アイヌ系の集落でした。

植芝盛平合気道開祖は、北海道に入植して、其処で武田葱角先生とお逢いされ 武術の技術を学ばれて、心や精神部分を出口大仁三郎先生との出逢いで学ばれて合気道に行き着くわけですが、おられた場所から察知して、あくまでも想像ですが、入り身投げとは、「イリ」(水が地面から湧き出る場)のように心を体を通して、相手の体から心の中に入り込む事で投げる技を、指し示したのではないかと思えるのです。
このことが自分の中で感じ取れて来たのも、全ての生命体に必要なフルボ酸鉄を、必然的に生み出す仕組みが人体構造とあまりに一致していると知ったからです。
そして先生も此れを知らなければ、「水を取り入れ水のように動く其が本当の禊の意味であり、其で始めて成り立つ一霊四魂三元八力」この言葉が生み出されなかったのではないかという事を感じたのです。

此れは星野道夫さんの文章からも感じることですし、倉本聰さんの北の国からのシナリオからも感じることですが、その言葉が抽出された自然界の背景が見えたときに、其を見るほどに、見えるものを創る見えない部分が、心の目利きで見えたからこそ生まれるのが言葉であり、其処にたどり着いてこそ、言霊になれるのではないでしょうか。

言霊が、心から体を動かす重要なスイッチですが、言葉が「生」な状態でないと霊にはなれないと思っています。
生な現場から生まれた言葉、即ち自然体感から生まれでた言葉を僕らは、失いかけているのです。
体感を言い伝え、育てて行くのが教育です。
けれども教師が親が体感をしていない事を伝えるのですから、体に染み込む言葉にはならないと感じます。
そして染み込むためには、染み込む体の把握が必須です。

例えば車が自分の身体に馴染んできた、家が身体に馴染んできたと感じると財産とは言えなくなります。
職人が道具が手に馴染むには、毎日の手入れや道具との一体感が必要です。
けれども家も自分で手入れなど殆ど出来ないのが今の住宅です。
そのように自然界も手入れをして、自分達が自然界に馴染むものとして自分を育てていたのではないでしょうか。

道具が変わったのではなく、道具に自分の身体を合わせてきた。

では僕らは車に住居に自分の身体を合わせてはいません。
即ち現状を工夫して本当は、己の身体を他者に合わせて来たのではないでしょうか。

己の体を森に合わせる。
己の体を海に合わせる。

合気道とは、このように自分の身体を他者の世界に馴染ませていく術を言い表して、開祖が命名なさったのではないでしょうか。
その時自分は水でなければ、諸行無常でなければ出来ません。

即ち中心とは、無いことがある宇宙観。

道具を変えるとき、以前の道具の記憶を全て捨てること。 違う道具を前に、過去のデータは殆ど役立たないと認識する力が必要なのです。

其は自分を殺すのとは、全く違います。
昨日のblogで書きましたように、糸ミミズほどの細い集合体のお互いの隙間にお互いの所在を創ること。
此が入り身であり、合気であり、愛気なのではないでしょうか。

その為には自分がなくては成り立ちません。 相手と一つになったときに無になる感覚こそが「愛」だと感じます。
即ち自分で無になることは出来ません。
愛とは、二人でいるのに無を感じた瞬間ではないでしょうか。
其はお互いの糸ミミズの間にお互いが入り込み一体となってしまっている状態です。
自分と他者の区別があるけれども一体になったことで別物になってしまい、自分への感覚がない究極の合気の状態です。

織物みたいな状態です。
右と左から縦糸の束が出逢い、綺麗に交差し、その瞬間どちらかが方向を横に変える。
縦糸と横糸の関係です。
この瞬間に動きが変化させられ運ばれる。
そしてまたお互いが縦になったときには、離され自分は空中に投げ出されている。
此が一人の人間と一人の人間を通して起きているのがloveですが、殆ど糸がほつれて絡まりよっかっかり「合」。
この「合」は「愛」には決して到達出来ないのでしょう。
子供ともこの合気の関係を僕はつくって行きたいと思います。
そして其を教えてくれたのは、森です。
だからいつも伏流水サポーターさんのお水を汲みに行くと、お水の横にある不動明王にお水をかけてさしあげ、手を合わせ一名様分に対して十円の賽銭を入れてお参りして、汲み終わると不動明王様と森さまにお辞儀をしてきます。
その瞬間僕の縦糸と森の縦糸がシンクロします。
その瞬間森を横糸ににして、体感を残して下山します。
山に汲みに幾度に、僕と森の機織りは少しずつ完成して、今にとてつもなく大きなタペストリーになるのだと感じています。
まるで地球を包めるほどの。
だから汲み上げ作業は僕の喜びそのものであり、皆様のお陰で森に逢い行けることを与えられていることに、本当に感謝をしております。

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