あらえびすブログ

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大地の霊と共に

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「人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。

誠が深ければ深いだけ、大地はこれを助ける。

大地は詐(いつわ)らぬ、欺(あざむ)かぬ

またごまかされぬ」

鈴木大拙「日本人の霊性」

大宮人たちの都会文化は洗練されていたが「自然との交錯」はなかった。『方丈記』に記すように、「京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼める」のが都会文化の実相である。
都会には「なまもの」がない。加工され、人為の手垢のついた商品しかない。そして、大拙によれば自然との交流のないところに宗教は生まれない。

「大地を通さねばならぬ。大地を通すというのは、大地と人間と感応道交の在るところを通すとの義である」鈴木大拙「日本人の霊性」

だから、都会貴族は没落し、農村を拠点とする武士が勃興する必然性があったと大拙は説く。

「平安文化はどうしても大地からの文化に置き換えられねばならなかった。その大地を代表したものは、地方に基盤を持つ、直接農民と交渉していた武士である。それゆえ大宮人は、どうしても武家の門前に屈服すべきであった。武家に武力という物理的・勢力的なものがあったためではない。彼らの脚跟が、深く地中に食い込んでいたからである。歴史家はこれを、経済力と物質力(または腕力)と言うかも知れぬ。しかし自分は、大地の霊と言う」

上記は朝の肚国会のテキスト内田樹氏「街場の天皇論」からの引用です。

冬の水汲みは、「大地はごまかされぬ」というのをすぐさま体感し経験できるので
私たちの「誠」が試されます。

だからこそ自然への畏れを肌で感じ
「大地との感応道交」を感じるからこそ自然や目に見えないものに対して敬虔な気持ちが目覚めます。

山に入るということは、危険が伴うだけに身体を調えられ、
危険であるほど野生的な力と直観が鍛えられます。

内田さんが能楽のシテについて語っている言葉
「己の「自我」を一時的に停止させ、その身を神霊に委ねる」と通じます。
「我が身を「供物」として捧げることでその強大な力を発動させる」武芸のおおもとのかたち。とも。

 この活動のベースにもなっている
北の国からの吾郎さんや星野道夫さんの在り方も「大地と人間の感応道交」。
それなくしての繁栄は砂上の楼閣であることは
今の現実をみればみな深いところでは感じているはず。

大地から送られる野生の力 無尽蔵の生成と贈与の力が
切迫してくるのを感知したとき日本的霊性は誕生した
と鈴木大拙は仮説している

311はまさにそのような「大地から送られる野生の力 無尽蔵の生成と贈与の力」を私たちに見せてくれたと思うのです。決して破壊だけでなく。
だからこそ自然の脅威を目の前にして畏れだけでない何かを感じ
そのときから何かに目覚めた人もたくさんいたと思うのです
人々の間にまた自分の内にも一瞬でも日本的霊性を垣間見たと思うのです。
そういう意味でも311を忘れてはいけないな、とも。

そしてそれを身近に感じれるのが日々の水汲み。

あらためて神霊と結びつくこと、
身をささげること委ねること。
そこからの活動。

 

山に入るとき誠であれ。

自然界に嘘をつくな。

誠が深ければ深いほど山はこれを助ける。

 

雪が降ると水がトロトロに甘くなるのは
山が助けてくれていると思って
ますます謙虚さを磨かれる冬の水汲みです。

投稿者:伏見忍