産業を越えれる唯一の存在がアートであり、モノの背後に潜む製作者の生きざまこそが、アートでは?
踊ったり、音楽を演奏したり、作曲したりだけを取り上げても、アートには行き着かない。
それは、糸を紡ごうが、家を建てようが、日常の生活に必要な様々な消耗品を作ろうが、その背景に普遍的な時間の流れを元に、身体が呼応したいと感じる何かがこそが潜むモノに、人は魂が引き付けられるのではないだろうか。
その形に辿り着く何かを、僕はアートと呼びたい。
だから例えば、ビアノでモーツァルトを奏でるだけではアートにならず、そのモーツァルトを弾く行為に潜む、何かと呼応するから、モーツァルトは様々に変化していくのではないだろうか。
何かと呼応するを、魂とか神様とかと設定してみると、その様々なモノの背後に潜む受信装置こそが、人類の本来の生きざま何だと僕は、捉えたいのです。
欠けた湯飲み茶碗を、大事に大事に使う背後には、道徳的にモノを大切にしようでは計り知れない、想いや直感があるはずで、それを使用者が感じ取る想像力こそを抽出する、弾き手や製作者の創造力というエネルギーをアートだと定義しなおすならば、今まさにアートが地球と人類を産業市場経済の蟻地獄から救い上げる、救世主になるのだと感じているのです。
その意味では、ツールは既に殆ど出尽くしたて言えないだろうか、
農業でもアートな農業とは何か?
トイレットペーパーを作製でも、アートなトイレットペーパー製作ては何か?
トイレットペーパーがアートにはならず、アートな所作がトイレットペーパーをアートな作品に変えるのではないか。
日常の他愛ない瞬間も、アートであるか否かを、先ず思考の先端に配置して、日々の所作を考え直してみる必要があるはずだ。
それが、身体所作を変更させるに繋がる。
我々は、産業革命以降に、所作からアートを切断した。
ゆえに、精神病なるものを生み出した。
そして、IT革命以降に、所作さえも切断した。
即ち、一番大事な身体を、日々に存在させなくなり、更に複雑な精神病を生み出したのではないだろうか。
例えば、慣れ親しんだ茶碗こそ、様々に触れて感じてみたいし、始めでの茶碗でも、何度も傾けたり様々に触れてみたいは、どこか経験値を越えた懐かしさを発見したからではないだろうか。
茶碗と認識して、僕らはいかにも理解したように感じてしまうけれど、茶碗と認識したは、自分の記憶や無意識の記憶という時間とは、一切合切関わってはいないはず。
そこに踏み込む事が、メビウスの輪で捻る瞬間ならば、イルミナティがいようが、ケムトレイルが撒かれようが、その二項対立思考の彼らが存在する端と、その全く逆に存在する自分という場を、共に4分の1ずつ捻る作業こそが、アートになりうる。
だから、踊るだけや、モーツァルト弾くだけではアートにならないように、陰謀を解くだけでもアートにはならない。
それは、素材である茶碗を、視覚で捉えたにすぎないはず。
陰謀なんて素材をいかに料理して、陰謀企てる輩にも、ウマイと言わせれたか否か。
陰謀にたじろぎ、身構えるだけの庶民にも、ウマイと言わせれたか否か。
この、全く相反する両サイドにある、違う場に対立するモノを、同時に逆に捻り結びつけれた時に、産業革命〜IT革命の次に来る、芸術革命が生まれでるのだ。
だから、僕は一切合切他者に求めない。
自らがIT革命の次である、芸術革命を世に抽出出来るか否かなだけ。
だから、自分との闘いでしかない。
まさに、メビウス芸術経済の幕開けを、誰よりも僕は信じているのです。
アルビン トフラーの第三の波は、IT革命でしたが、まさに第四の波は芸術革命なんです。
だから、なかなか理解出来ないわけで、いよいよ芸術思考こそが、庶民が当たり前に持つ時代になるのです。
それは、産業革命やIT革命では思考の片手落ちゆえに起きた、身体置き忘れ精神病から派生する、今の様々な全ての問題を一気に同時に進化させるから解決する、救世主であることは間違いないと、毎日毎日日々、確信のlevelを強化しているのです。
だから、アラエビスは、常に全員がartistとの考えで結びつく場です。
お客さま扱いや従業員扱い等に繋がる、芸術思考を妨げる全ての存在を、アラエビスではドンドン間引きして、真の自由を芸術思考によって手にしようとしていく、集団なのです。
その枠が、縄文百姓芸術団 アラエビス なのです。