今晩又、お水を持って東京へ。
見えてる部分がそのままわきだしている量です。
これぐらい創造の源泉がとどめもなく、湧く自分を更に鍛え続けないとなりませんねー。
昨日は夕方五時には着いたものの、車庫入れ時に滑って側溝に前輪タイヤを載っけてしまいました。
押しても滑ってタイヤ空回りと判断して、直ぐにJAFを呼びました。
流石にプロであり、この里山で車屋さんをやりながら、JAFの代行もやっておられるので胆を心得ていらっしゃいます。
この後にご新規四件と、おかわり十二件ボトリングして終わると十時過ぎていました。
そして、明後日のお話会と試飲会、そして新しいボンドガール相馬さんとの、ご対面の準備をしました。
東京へ出向き、里山に戻り、あるときは里山に出向き、東京へ帰る。
陰陽であり、マネーグローバル資本主義と、新しく稼働させなくてはならない里山資本主義の間に立ち続ける事で、自分の内面に写し鏡のように、今の地球に住まう人類の問題が凝縮されて表現されて見えてきます。
自分を見つめるとは今という唯一の現実の一瞬であり、このように自分と言う媒体を写し鏡として存在させ、鏡になりきるときに写る仮想現実を捉えている自分の、今そこに一瞬現れる思考を今と捉えているのだと思うのです。
見えている世界は、見るという行為が観るではないから、どうしてもねじ曲げて仮想の現実を脳が作り出している。
だからその仮想現実に向き合っている自分自身を、どのように解釈しているのかこそが現実として、唯一認識出来る信実であり、イデオロギーからの脱出なのだと感じています。
けれどもシブトイ位に自分に染み付いている。
状況は、実は外にはない。
だから例えば、誰かと仲たがいしても、それはお互いの仮想現実にズレが生じるから。
仮想現実の一致は、今度は仮想の現実化を強引にすることで自由を束縛するので、イデオロギーから生まれる宗教になってしまう。
人が強固でシナヤカな信頼を作るためには、見えてるバーチャル現実を見ている自分を見るしかない。
そこに始めて自分も他者も全てを俯瞰して見ている、本当の自分がいる。
この自分によく出逢うのが、この行ったり来たりのアシタカのような、蝦夷の生き方をさせられているお陰である。
それは言葉を見事に失う。
しかしその先に、全く違う観る聞く捉えるという、感覚を全面的に頼りにする世界が横たわっている。
この感覚を全面的に頼りにする世界を捉えているのは、自分がバーチャル現実にバーチャルな仮想の媒体としてしか存在していないからであり、そこからしかイノベーションに通じるアイデアをひねり出す自分に仮想の自分が出逢うことはないのだと思うのです。
これが三次元の我々が土俵を二次元化して見てきたことで身に付いた現実。
それが様々な弊害を生んでいる。
ならば、思考を何段もあげる以外に方法はない。
敵は常に自分の中にある。
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