今日は誕生日、55才になりました
本当にあっという間の54年間でした。
自分が本当の意味で自分の生き方を認め、何があろうが世界中を敵に回してひとりぼっちだとしても、この生き方を貫くと決めたのは、株式会社でアラエビスをスタートして二年の失敗の後の、一昨年の八月からでしたから、僕にとっては本当の意味での成人式は、53才半ばからです。
情けない限りの、ホリエモンのような、ZEROからのスタートでした。
だけれども、その事で、自分の本心に嘘をついて、人に合わせて生きていることを、理解しました。
合わせるってけして、自分を引っ込めることでない。
お互いが素のままで、合わせる為の手段を見つけることと、知りました。
それで始めて、ブレナイという事が、自分の身体で明白になりました。
お山と水を、命あるものの手に戻せる社会構造を創る事から、一切逃げなくなりました。
それからですね。
色々と動き始めたのは。
社会のせいでも、他者のせいでもなく自分が自分の生き方を貫徹したら、それに響命するバイブレーションは、必ず響き始める。
それが自然界だとも本当に知りました。
木はその場を動かない。
ここで生きると決めたときから、根を張る。
まさに昨日の山寺のご神木です。
そこから、始めて枝葉が伸びる。
天に向かって。
自分が相手に合わせて、アッチコッチ動いていたら、いつまでも根が張らない。
禿げ山のお山に、たった一本の木がここを緑に変えていくんだと、根付いた時に何かが始まるのですね。
だから、根付くとは、自分の意志を貫徹すると決めること。
自分が根を生やす《場》は、既に生まれたときに知っている。
持っている。
それに目を向けないと、いつまでも自分をいきれない。
それを解消する為に、恋人に依存したり、結婚に場違いな依存をする。
仕事もそうですね。
給料で選んだり、後付けの特技で決めたり。
それで始めてシュタイナーが言っていた、子育てとはなんの野菜かを見極め続けることの意味がわかってくる。
己の経験値の逆を生きれば、自分とは違って幸せを掴めるとか、自分と同じ道を進めば自分サイズ位の幸せぐらいは掴めるとか、それは妄想でしかない。
その考えの連なりが、この社会を生んで作ってきた。
そこから出るって、実は凄くシンプル。
経験値やデータを一回外して、大平洋のど真ん中で、此方へ行くと決めるだけ。
誰かが、殆どの人が向かわない先にこそ、自分のタオが待っている。
53才半ばでやっと知った自分のタオ。
シュタイナーで言えば、七年周期で遅くても56才終わりまでに、自分の道を生きていなくては、そのずれが様々な身体や心のズレに現れてくる。
環境もその一つである。
環境異変という、地球の12000年の周期のど真ん中で、どう生きるか。
それは既に決めて生まれてきたはず。
自分の本心に出逢い、それから散々何かのせいにして見ないようにしてきた事が、集合体で今の世界を作っている。
地球でしか僕らは自分の《場》を見つけ根をはれないのに、地球の表皮のみを都合よく解釈して利用して生きている。
僕らの核には、地球の意志が刻まれて刻印されている。
それと共に生きたときに、力が発揮され、528ヘルツの振動が感動をおこし、体を心を震わせる。
僕らは地球の楽器である。
必ず、振動し響命するように、生まれて来ている。
日の出を見て感動したなら、自分が感動する社会を自ら創るアーテイストに、自分を育てなくてはならない。
それは社会が、朝日や夕日ののように、綺麗!と心から思えるまで続く、魂の仕事を、三次元で実現することではないだろうか。
僕にとっての成人式から、やっと三年。
55才は、たかだか23才でしかない。
今年も自分にチャレンジし続ける。
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