あらえびすブログ

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結局、六時間雪掻きの一日で、犬ゾリはお流れ、マダマダ降り続いています。

昨日は朝五時からの雪掻きが四時間。

そして、夕方にも二時間。

その雪はマダマダ降り続いています。

 

犬ゾリ訓練は、見事に時間がなくお流れでした。

毎年お正月前に、雪が多い時期が一度あるのですが、今年はヤッパリ新しい地球のサイクルに来ているようです。


弥生に親しんだ僕らが、縄文への変革での過程は、本当に多くの学びをさせられます。

マネーの事、自然界の事、人間関係の事、生活スタイルの事。

全てが新しい領域。

決して、キアスムの逆側に即ち縄文的な生き方に移行しても、体も心もまだまだなれていません。

お山と水の復活を求めて、東京か伊豆に引っ越し、マネーを弥生形式での活動にて得ながら、自給的コミューン形成即ち縄文的な実践を試みた時も、その自分の二面性が上手く統一できなく、それはそれでシンドイ六年でした。

自然界の荒廃がここまで来ていても、無力な自分を感じた重要な時期でした。

特に別荘地域での、縄文的な実践は浮いてしまっていたし、余りにも生活価値での一致が難しい場ですから、趣味の縄文生活にしかならず、そこから新しい時代のイノベーションを起こそうなど夢の夢でした。

それなら都市部で、環境に配慮して暮らしている方が、まだ一致間がありました。



しかしこれこそが、イデオロギーなんですね。

それを根底から学ばされました。



そして本物の里山を求め、弥生形式のマネーを得る活動を減らしながら、徐々にここ東北の里山暮らしに根付いて、この活動を本格的にスタートさせる準備の四年も又違うシンドサがありました。

何せ企画があっても動いていない現実、動かすためには地元の信頼、都市部での応援その下地を作るのでさえ、絵に描いた餅から創造して頂かなくては、信頼も応援もヤハリ絵に描いた餅なのですから。

そして、この活動の実質を動かし出して一年半、いつのまにか人の出入りが自由な場になり始め、多くの労働での応援の為の滞在も多くなるなかで、この共同学舎のような予定調和での人間関係を持ち込まない事へのチャレンジが続いています。

一人のリーダーをもたてないで、響命しあう事の実践は、人間関係の変革を学ばされています。

弥生形式なら、仕事、家族、恋人、個を使い分けてバランスを取ることが、必須ですよね。



けれども、縄文のコミューンは全く違う。

それが鍋のようにゴッチャになりながら、いつの間にか響命しあって、美味しいスープを作り出す。

レシピは、ない。

鍋の具も偶然の持ちよりでの鍋パーテイー。

鍋だとも知らないで、ショートケーキも来てしまう。

そこへ大雪で、肝心のコンロ持ってくる人が、なかなかたどり着かない。

だから毎日が、事件。

その中で調度良いバランスを見つけて、今日のオトシドコロにどうにか帰着させて、取りあえずのチャンチャン。

予定は立てないが、プランがないのとは違う。

プランがあり、目標があるのですが、目的は多方面に用意されている。

目的がそれぞれでいながらも、一つの目標に向かい結果を達成する。

そこでの自由度が、縄文の自由なのかなと、一寸はわかり始めた気がする。

まるで通勤通学で偶然出逢った人が、何かの事件に巻き込まれ、全員で事件を解決して生還する。

弥生の時代、映画ではそのようなお話が憧れとして沢山あります。

しかし、そのような毎日を送り始めた自分は、まさにその土壌で今生きているなと感じるのです。

星野道夫さんの大好きだったノンフィクション、エンデユランス号の漂流です。


弥生の場でも、あのときの病気には、こんな意味があったのかとか、あのときの別れにはこのような意味があったのかと、後々わかる時が人生で何回かありますが、縄文ではそれが毎日でそれこそが生きるなのかと、そこにはヤット身が慣れ始めて来ています。

さて、今朝もマダマダ降り続く雪を、ママさんダンプ(雪国でないと解らない名称かしらん)で、部落民で、各家庭の家ノ前に沢の水の水路をつくっているのですが、そこに家中回りの雪を流します。

このときほど、水路があって良かった、水の有り難みを体感します。

ヤッパリ水は凄いと、いつも思えるこの暮らしは、腰やら背中やらそこらじゅうが痛いけれども、僕は大好きです。






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