新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る お山繁盛コーポレーション
今月も今日で、過ぎ去っていきます。
今月は怒濤のような流れで、様々が動きました。
多くの訪問者。
そして大きな流れがお来はじめました。
昨日お越しの、オオエキ一家の方々のご訪問も、楽しい日々でした。
今日から群馬です。
これもその大きな流れの一つですが、来月は更に怒濤の連続になること、間違いないでしょう。
十六年かけて創ってきた様々が、梅雨の湿りと共に、大地からのエネルギーをトーラスで回して、茎を急速に伸ばし始めました。
まるで、四月、五月には、ほんの僅かな所に生え始めたクローバーが、大きな丘一杯に芽吹き出したかのようです。
来月は、更に大きな場に増殖し始めそうですが、この時が一番気を付けなくてはならないと感じています。
水を扱うがゆえに、水に流されてしまわないように、バランスを整えて取り組まなくてはなりません。
今まで、エネルギー循環のバランスが崩れているばかりに、生態系が崩れた形で生えている雑草を、バランスよく生えることで、雑草と言わせない、生命に仕上げていかなくてはいけません。
ブナのお山に生える、下草のように。
今多くの方の本気が、この活動という機関車が引く、客車に乗ってきました。
それゆえに、仲違いや様々が起きることも、出始めます。
想いが強いほど。
ですから、大きなフィールドで、全ての生命力を活かし逢うような、懐の深さを自分が身に付けないと、折角期待されて乗り込まれたのに、運転手の僕が沈着冷静に、コーデイネート出来なくては、自然界という荒馬である機関車と、それが贈与で増殖するであろうと期待されて乗り込まれた様々なサポーターに、迷惑がかかります。
全てが己に問われます。
ここでこそ、母音が重要ですね。
無意識が現実化して来たとき、動物と同じく、人も母音が肚から生まれます。
言葉に変換したときは、過去になってしまう。
だからこそ母音〜生まれでる形を三次元に生み出し、そしてヤット言葉に変換する。
先に言葉に変換させると、現実は机上論でいつのまにか天界に、召されてしまいます。
この六月の最終での本日の出来事は特に、この事が出来ていないといけないのだと、痛切に感じています。
浮き足だったときに、言葉が先行し始めます。
着目されるほどに、冷静沈着でありながら、更に他者を活かしきる。
自分は更に、中心に居続け、動かず語らず聞くに徹しなくては、無意識を現実に形にして見ることが出来ない。
というよりも、見過ごしてしまう。
雑草を草刈り機で刈っている内に、松茸の赤ちゃんを全部刈ってしまったように。
そして以外に自分が気付けていないもの。
聞くときに必要なのは、自分再度の増殖に縛られて腹黒く聞きやすいという事。
だから聞くときこそ、零化が問われます。
そして見えたときに、どれ程のモノが生かされるか見抜き、その上でそれを取るか取らないかを決めなくてはなりません。
そこで慌てて、現実を掴んだら、終わり。
其は、僅かなものだけ掴み、次に嗅覚を進めてれば、捕らわれないですむ。
そして、自分が増殖の場を確認し、拘らず次へ進むからこそ、客車に乗り込んだ方々に、自然界の贈与を渡せる。
中心は、サービス業出なくてはいけない。
最高のパフォーマー出なくてはならない。
最高のパフォーマーは、自分に酔わない。
代わりに観客を酔わせてあげれる。
最近の芸のない芸能人が作る番組のように、自分達が楽しんで終わるテレビ番組のようになったが最後、この列車は谷底に落ちていく。
ただただ、己に徹する。
そしたら、次の点線が見える。
キアスムは、本当に旅をする冒険だ。
そして、たまには、三次元フィールドで、ホット出来たとしても、この時代鎮座は許されない。
その場さえも、客車に乗る方に渡していかなくて。
きっと一生、キアスムな冒険の旅は、新たな形の拡大をしながら、進んで行くのでしょう。
直線の増殖ではなく、季節が繰り返すように、巡りながらも、年輪のごとく増殖していく。
二千年の木を、僕は生きたい。
八十で死んでも、キッチリと分断されずに二千年の一部を担うように。
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