あらえびすブログ

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アシンメトリーな脳はそれだけで旅をする運動だ 6

 第一章 その5  
         ベーリング海峡を渡る言う身体性の意味合い  
 僕は凍てつく寒さのなか、組立式カヤックエルズミア480を組み立てる。  
思い返せば伊豆の海で、日本海でこのカヤックに命を授けた自分の記憶が甦る。
教え伝える仕事をしながらも教わることでは身に付かないと知っている自分は始めてのカヤック体験が、台風通過直後の大平洋に一人出たことである。
習うより慣れろを自分に言い聞かせ、もしも自分が孤島に住みそこへ三日後に津波がくると知ったら迷うことなく未体験でもカヤックに乗り沖にまだ見えぬ陸を求めて漕ぎ出すと身体が言っているからであった。
その身体の言葉に自分を賭けた。
漕いでも漕いでも沖に流される。
何度も救助隊が来た。
偉そうにパドルを休ませ高低さ五メートルの波間で浮き沈みしながら初心者を隠し「いえ此れは訓練ですから大丈夫救援は要りません」と見栄をはる。
しかし救援モーターボートが帰り、いざ漕ぎ出そうと身体を動かすと背中の筋肉がこんなにも強張っていたことに始めて気付く。
何処かでボートに引っ張っていって貰うべきだったと後悔をしながらも既に誰もいない。
ふと横を見ると小魚の大群と海鳥が「陸の動物のお前が此処で何しているの」と言われている気がするほどに漕いでも漕いでも彼らの方が早い。
向かい風のパドリングは陸から見るととっても滑稽だと言う、本の一節が頭を過る。
それだもの救助に来るだろって以外に冷静に俯瞰した自分自身の自分への眼差しを感じた。
わずか三センチにも満たない小魚も同じ感想を僕に届けてくれている気がした。
その時に無意識に沖に背を向けて感覚に身を任せてカヤックを操った。
俺には陸でやることがある。
本能が自分を動かしたのである。
予定では二時間半のコースが出鼻から七時間に及んだ。
今自分はベタ凪ぎのベーリング海峡を見ながら愛挺を組み立て、懐かしいカヤックデビューのワンシーンを思い浮かべていたのである。
身体性の記憶を辿っていたのである。
そのときである。
この地から何人もの人達が此処を往き来した映像が頭に浮かび始めたのである。
そうあのときと同じだ。 築百年をこす古民家を片付けているときに見えてきた何代にも渡る、会ったこともない家族の営みの映像。
ベーリング海峡を渡るとは時間を遡ったり未来に行ったりと、通常の時間軸概念を越えることなのだと察知したのである。
重曹的な時間軸と言う深い海にカヤックを浮かべ僕の身体は時間軸に乗り込んだ。
此れから約十二時間漕ぎ続けなくてはたどり着けないアメリカ大陸。
僕は背骨の中に記憶する場と時間が複雑に絡む世界に身を任せたのである。
時間こそが水の流れであったのだ。


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