あらえびすブログ

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アシンメトリーな脳はそれだけで旅をする運動だ 5

第一章 その4 
            シベリアの極寒ツンドラを越えて
 今永年思い至る事が不可能だった「愛」と言うものが、この極寒の中だからこそ空気が張り、だからこそ光輝く北極星の光の中に何故か感じとれるのである。
冷たい空気は僕の肺を引き締めてその中にある一番星の存在を示したのである。

 愛は立ち居地を年代と共に微妙に変えながらもその根底は不動である。
不動明王である北極星と涅槃像の自分の中心が光を通して、対話を交わしているのがハッキリと今感じとれるのである。
北極星の輝く光が自分の中で転換され他者へ届ける光に変換されている。
まるで増幅されているかのようにも感じとれ、まるで自分が発光しているようにも感じとれるのである。
この極寒の地で体の中心が火照って来るのさえ感じるのである。
今までも沢山光を想像して、闇を想像してこの正体に近づこうとしてきたが掴んだと思った瞬間、其は想像の中の幻想のように消えさえる事を自分は何度となく繰り返してきたことか。
しかし其は「愛」と言う生き物の正体を描く術を自分の手中に全く持っていなかったと言うことである。
北極星は自分の中に存在していたのである。
内なる自分の中に無いものは決して外の世界に見つけ出すことは出来ないのであった。
輝き続け、光続け、燃え続ける生命の根元のパワーを自分の中に見つける為には二項目対立思考からの脱却が生む内なる平和を場に据える以外に方法はなかったのである。
そして内なる平和を感じる自分があってこそ始めて「愛」を感じることができるのであった。
内なる自分に僕は今始めて出逢えたのである。
五十三年もかけて今はじめて。

 その時、バックパックの奥底で何かを感じた。
じっと心の目を凝らすと、其は人生と言う場で本気で命を架けて生きる為に必要な目標と言う全体脳が背負い続ける重荷であり、生きる証であった。
今全身が愛で満ちてしまっている。
なんと言う暖かさなのか。
愛の重さをしっかりと噛み締めている自分が此処にいる。
その満ち溢れ広がるパラボラアンテナ状の中心に心が、あなたは「此処だよ此処だよ」と点滅信号のような光を発し続けているのである。
雪女にも感じられた女神像は実は自分の心だったのである。
なんと言うことか五十まで心さえも知らなかったのである 。
体や一方向に伸びる経験値では大人であったけれども、心は子供以下であったのだ。
その自分を全く育ててこなかったのだ。
外にばかり目を配って追いかけてきたのであろう。
振り付けも私生活も。

 パラボラアンテナの中心という僕は今恐ろしく求感している。
背中に背負った重荷が重いほどに満ちてくる。
愛が満ち溢れてくる。
手の甲が疼いて来た。
掌の中にある中手骨が延び始めているのだ。
足にも同じ事がおき始めている。
僕と言うラファール猿人は、今求感することで手足が始めて延び始めたのである。
実は二足歩行さえも手に入れていなかったのであろうか。
なんと言うことか、躍りを職業としてきてその時には延びきらなかった手足が 今躍りを職業としていた事からある意味離れ、その本質を求めて旅に出始めてこの場で初めて延びているのが実感出来ているのだ。

 二項目対立の思考それが底辺を占める内は、決して内なる平和を感じる「場」とは出逢えない。
それでは内なる北極星を知り得ることは不可能であったのである。
場数を踏むとは二項目対立の場ではなし得れないのである。
長い年数をかけて僅に位置を変える北極星と同じで、全体と繋がる思考の場で初めて意味を持つ言葉であったのだ。
何かと何かを比べている立ち位地からの思考では「場」という自分さえも自分の中に持っていなかったのである。
「場」がないのに「水に流す」ことはできない。
自分を見つけていないのに水に流すことはできない。
自分探しとは外ではない身体の中の場に出逢うことであったのだ。

 「場」は無意識界に繋がり吸収する土壌を持っていなくてはならないのである。
己とは無意識界に繋がり吸収する柔らかな土壌を持っていなくてはならないのである。
其れが大人なのである。
大人は巨大なパラボラアンテナを絶え間なく育て続け、その中心に「場」を持っていなくてはならないのであった。
それなのに自分は怪我をして挫折を味わった時からこのパラボラアンテナの成長を停めてきていたのであった。

 その「場」の中心から立ち昇る水蒸気。
その「気」が手足に動きの流れをつくっていたのである。
凍りつくシベリアの大地彼方にベーリング海峡の存在を感じ始めた。
嗅覚に潮の香りが微かにまとわり付き始めている。
その時自然に肩間接は内側に未来の情報を絞り巻き取ろうとしている。
これこそが嗅覚なのだ。
一方来た道のりを辿っているとき股関節は外側に過去の情報を巻き取ろうとしている。これこそが聴覚だ。
二項目対立の思考での嗅覚や聴覚はただの嗅ぐ行為ただの聞く行為でしかないのだ。
嗅いだもの聞いたものは、嗅ぎ取った物聞き取った物に昇華させたとき始めて情報を身に付けたと言える。
その時には自然に股関節肩間接は、本来の方向に自動的運動を起こすのである。
そのように全体脳にはプログラミングが施されていたのである。

 嗅覚は味覚と言うパラボラアンテナの中心が咀嚼するときに一つの感覚運動としてのブレイクを始めて持つ。
これが「間」であるのだ。
一方聞くとは「間」の中心に耳を配置している。
嗅覚味覚咀嚼なくして聴覚は運動を体には起こさせないのである。

 今、潮の香りはいつの間にか海のさざ波の音に昇華されている。
この感覚を全身で味わったときに彼方にうっすらとベーリング海峡が姿を表し始めた。
その時に僕の頸骨は自動的に後ろへ引き始めた。 まるで脳が宇宙全体の広がりをが把握できているかのようである。
その全体脳の中心にまだ見ぬアメリカ大陸が創造され始めてきたのである。
いよいよベーリング海峡カヤックを漕ぎ出すときが近づいてきた。
この海は僕の身体に今度は何を気付かせてくれるのであろうか。
海峡を越えるとは自分の自我を越えることになるのであろうか。
限界を又一つ越えることなのであろうか。
もうすでに内なる平和を獲得した自分には一切の恐れの感情は皆無であった。


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