あらえびすブログ

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アシンメトリーな脳はそのままで旅をする運動だ 2

第一章   その1     
           僕の中に流れる民族の心 
 アフリカの大地で直立し世界中に広がって行ったラファール猿人。
其処からあるものはヨーロッパへ、又あるものはアフリカを更に南下、又あるものはベーリング海を渡りアメリカ大陸をどんどん南下していく。

 僕は北海道の北の外れで生まれた。
遠洋漁業の基地になる町。
其処でその産業で生計をたてる方々に様々な必需品を商いにして暮らす商売人の長男として生を頂いた。途中から家族の都合で札幌に移るが何かが合わなかった。
そうして親の離婚がきっかけでもう一度北の外れに戻ることになった。
札幌で何処かに欠落を感じていた自分は、その地に戻ることで何かをしっかりと得ていた。
しかし其のときにはその事にさえも全く気付く事ができなかったのであった。

 今年一月で早いもので五十三歳になった。
もう自分が五十代にいるとは全く信じがたい事である。
僕はある時から商業舞台のお仕事をさせて頂き、其処から長い間躍りのスタジオを主宰することでどうにかこうにか四十代までは生きさせて貰ってきた。
しかし四十代でふと立ち止まったのは生きるスタイルのもうひとつのベースをつくっている核に突然出会ってしまったからなのだ。
例えるならば若い頃から相思相愛だった相手と何かのきっかけで離れ、もう彼女には逢えないであろうと半ば惰性で結婚を決め様々な段取りを終わらせたその翌日に再会してしまったようなものだったのだ。
其のときには北方海洋民族の血が此処まで自分の人生に主導権を持つ存在になろうとは夢にも思っていなかった。
何せその頃は表面の脳と深い脳が此処まで全く違う世界を地球上の表層に形勢してるとは感じとることが全くもって出来なかったのだから。
何故なら僕自身が当たり前に高度経済成長の社会の仕組みのなかで二項対立の 思考を育て過ぎてしまっていたからだ。
今思えば札幌で感じた違和感は其処に繋がっていくものだったと。
今の鬱や様々な社会の限界に現れている問題は、この二項対立による定義で成長できる限界地点まで来てしまった事を示していると感じている。
其処から先を展望することと、実践することには莫大なる価値観の変革が求められる。
だから仮に展望できたとしてもいざ行動に移していくとなると其処には山ほどの障害が現れ始める。
「まあ仕方がないや」と見ないふりをしてしまう事でやり過ごそうとするのだが、そうそう自分の無意識が求めていることに目をつぶるのは容易ではない。
そうすると必ず自律神経かホルモン系である内臓などがやられ結果何時かは向き合わされてしまうものだと思う。
此はラファール猿人の頃から我々の奥底に培い染み込ませた血とたかだか百年弱で形成されてしまった価値との壮大な戦いが身体のなかで戦い始めているのだと僕は感じている。
まるで開拓者の白人とネイテイブインデイアンの戦いが、イヌイットとの戦いが、アボリジーニとの戦いがなんと自分の中ではおき始めているのだ。
戦いといってもお互い武器を持つことだけではない。
立ち居ちの戦いだ。
昔のように、ハリウッド映画を見て一方に悪を想定して自分を正義の方に荷担して娯楽を楽しむような事はもう今の僕には出来ない。
何故なら偽善者も悪者も全て自分の中にいて其が戦いとは言えない一方的な戦いを、なんと自分と言う大地で始めてしまったからなのだ。
戦っている立ち居ちの違う二者も、戦いの場である自分の体も全てが自分なのだ。
だからこそ先住民は大地が、海が傷ついていく様を自分の体のように感じ取れる位置に立っていたのではなかろうか。
そうしてそのように大地を崇めて生きてきたネイテイブアメリカインデイアンのような存在が僕の中にもあなたの中にも居て、その全体に所属している自分が思考だけの自分に戦争を仕掛けられているのだ。
そうして案の定、その頭だけで考える思考が造り出す社会が同時多発的に全体である(感じとる)自分を蝕み始めている。
だからこそ意図的に僕らは感じないふりをするしかなくなってきている。
其が取りあえずは一番早い対処法だ。
具合悪ければ直ぐに薬を飲んで収まると直ぐに忘れてしまう。
体は根本を変えてくれと言っているにも関わらず其を聞き出せるだけの感覚も従ってみる度胸さえも失ってしまったのであろうか。
だけど全体の脳に繋がっているのだから、何かを感じて何かを感じないなんて器用な事は僕らには不可能なのだ。
世辺りが下手な人は実はとても感じてしまう脳が発達しているだけなのかも知れない。
その置き去りにしている違和感を表現する場を持ち合わせていない人は本当に生きることが辛いであろう。
まさか西部劇のようなシーンが体のなかで絶え間なくそしてジワジワとおきていたとは自分では全く気付かない事で何十年もやり過ごして生きて来てしまったのだ。
それも登場人物は全て自分なのだから、なにかにだけ感情移入することは不可能だから安易に何れかにだけ感情移入をしてしまう。
面倒臭いと。
他人事のように歴史の一部分の出来事と解釈させ後から移住してきた自分が本来の先住民である自分を乗っ取り始めていると僕は感じ取ってしまうのだ。
だから原発処理問題や再開問題、金融問題、社会保障問題の前に、さて自分は今どの立ち居ちで考えようとしているのかを真剣に感じとることでしか発見されない現象だと言い聞かせている。 其は考えることと感じることの戦いでも有るわけだ。
感じることで先ず手にしなくてはならないのが立ち居ちの決定ではないだろうか。 立ち居ちが決まり初めて考えられるのではないだろうか。

 僕は本当に今やっと立ち居ちに立つことが出来たラファール猿人だ。
五十にして天命を知ると言うのならばどうにかこうにか追い付いたのかも知れない。

 さてラファール猿人と同じくやっと立ち始めた中年は何故か迷うことなくベーリング海峡を目指し始めてしまった。
勿論地図などがあっての旅ではないので僕のバックパックには地図はない。
夜空に広がる星を見たときに何故か殆ど位置を変えない北極星に向かって一歩を踏み出したのだ。
さあいよいよ僕は立ち歩き始めた。
まだまだ弱いやつだからたまに後ろに広がるイエローブッリクロードに懐かしさを覚えてしまう。
けれどももう其処には人工的に輝く星し感じ取れない。
だから戻る気はさらさらないのだが、それだからこそ懐かしく思える世界に畏敬の念を感謝の気持ちを覚えるのである。
僕は旧態依然の価値観を土の中に埋めて葬って出発し始めたのであろう。
もうイデオロギー的な批判による立ち居ちは自分の中には見当たらない。
何故ならもう死んでしまったのだから。

 さて僕は此れからどんな風景に、見たこともない動物に植物に逢いながら駒を進めていくのであろうか。
此は僕の心の中に起きることで言えばフィクションだ。
しかし五十三歳にして歩き出した今そのものから触発された瞬間瞬間を切り取ったと言う意味ではノンフィクションなのだ。
どうか生の声だと感じて読み進めて頂きたい。
出来るならば共にその道を歩いていると仮定されて読み進めてみてほしい。
きっと共に書き手と読み手と言う立ち居ちの違いを越えれる何かが目覚め始めて来るであろうと信じている。
たかが文章を読んで頂くことで、未だ見えない新世界を築いていく事が出来ることを信じてやまない。
何故なら3.11で我々の意思とは別にその扉は開け放たれてしまったのだから。
全体に繋がっていくどのような扉も我々ごときの意思では開くことは不可能なんだと今の僕には思える。
僕らに出来るのは其処で捨て去るものと育てるものを決めて前に一歩駒を進めることだけである。
決めたなら兎に角一歩一歩前進するのみである。
ただしこの道は全体に通じる道だから方向性はあるが近づく程に今までの思考の限界を感じてしまうのであろう。
と共にその反動で現れる感考にはあまりにも大きな可能性を感じ、その前でたかだかこのちっぽけな人間が如何におごり高ぶっていたのか思い知らされ唖然とするのかも知れない。
しかし仕方がない、其処が新しいスタート地点なのだから。


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