新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞
やっと薪割り機の修理が終わり、今日から下の土地の草刈りと薪割り再開です。
昨日は大好きな《ひつじや》さんで、お昼にジンギスカンにオーガニックワイン。
これから山ほどの方が、関山のお蕎麦屋クルマさんと、ひつじやさんには行くであろうと感じ、今日は正体を明かしました。
みる方が違う思考からみれば、怪しまれもするので、地元ではよっぽど此方が気に入らない限り、身分はふせております。
あくまでも、キアスム構造の事業が創る形を三次元に抽出して、やっとわかることでもあります。
以前は見せすぎて大失敗でしたから。
さて、妻の景子が秋に越してきたときには、直ぐに通いたいのが居合です。
ひつじやさんに行く途中に居合神社があって、道場もあります。
今日は帰りにご挨拶に行ってきました。
今のキアスム構造の事業が展開され始めたら、やっともう一度軸が出来たので、夫婦で様々な躍りを子供のように生み出して行きたい。
九日にお越しになる、S社長がお持ちの漆での絵画の能の絵画のような躍りを、《居愛能舞》として、二人ライフワークにしていきたい。
キアスム構造の立体的な動きを、自分達の愛ある暮らしの実践から抽出させてみたい。
昨日までのblogで、僕の思考は随分と鍛えられ、何度も何度も火入れされた、日本刀のようになってきました。
ぶれるはずもなければ、諦め投げ出す事もなく、気負うことも、偉ぶることもいらない。
キアスム構造の事業に出逢えた時、ただそれを生きることが自分なだけです。
それについてくる、全ての出来事は、まだまだ修正が必要なだけ。
いつからでしょうか?
ただ踊ることに疑問が出始めたのは、そのわりに世界は変わらない。
そして、人の感覚を変えたいと、けれどもそのわりに世界は変わらない。
そして、会社を創る。
自然が増殖して、人の場も豊かになる会社を。
けれども、何も変わらない。
内部崩壊もした。
変わらないどころか、更に非対称性が世界に蔓延する。
何故なら、関わった人の足並みが揃っていない。
そこでついに、《個》で出来ることを、地味でも積み重ねた。
そして小さいながらも、対称性での動きを、実感できた。
そして、ジワジワと、次にある大きな対称性への動きが、おきはじめた。
それから、僅に残るワークも内容が飛躍的に進歩した。
受けられている方々の食い付きが、大きく変化し始めた。
即効性も出始めた。
僕らの脳が創るアートを、破滅はされずに新しい創造を表層に抽出できるには、抽出可能な形が絶対に必要だと、確信した。
僅かではあるけれども、現実に表層に結果が出始めた。
躍りはその形を身体に焼き付けるために、存在しているべきであると、悟った。
それから、はじめて出逢いはじめた様々な関係にもあてはめて、繋がるべき人、距離をとるべき人と、全てを思考の立体的な《場》において、サッカー場のように全体を把握した上で、そのなかで《個》がどのように動くべきかを、捉え実践しようと試みた。
そしてAの繋がりからBの繋がりにループさせて、そしてCの繋がりによって、それが世界に表出されるという、経験が現れてきた。
昨日の試合後のサッカー日本代表の会見での、ホンダの言わんとすることが、ストレートに入ってきた。
まさに個と全体性の関わりの関係を、言おうとしていると、僕は感じた。
個と全体性は、二極化で捉える事自体がそもそも違う。
絆や和という、概念が浮いていると感じるのは、そもそも生きる《場》にチームワークを必要とした生き方を当たり前にしていたのに、それがない世界から、多くの人が集まっても、絆にも和にも、全くなっていないという、事実です。
人は事実を見ないようにする。
事実とは、自分の外に存在する。
だから、中からは見えない。
普段から《場》を自由に移動させて、動いてこそ、場に起きている現象が見え始める。
《場》である《地》の認識は、脳にとって正方形である。
そこにこそ、丸の輪をおろす。
べジャールの《ボレロ》と、あくまでも今の僕から観たら危ういと感じる《輪(和)の舞》とは、全く違う。
外で踊るほど、躍りは再現なく消滅に向かう。
そうそう出来ることではない。
例えばそれは、ドームでも同じ。
四角という《場》が、そこに設定できるには、相当の創造力が必要だから。
ドームやサッカー場のように観客に囲まれたら、まだ出来る。
けれどもそこに主体客体概念の先に動きを抽出して、空間と一体化させ、躍りながら鳥とも草花とも、雑木林の若い木々とも、そして遥か山の上にある御神木、伏流水の奥の奥、マグマ、遥か彼方にある海、それを全て平面に置き換える思考なくして踊れないのが、円での、躍りであると僕は、あくまでも僕は感じている。
以前東京ドームで、オペラ《アイーダ》を観たときに、広い空間を一つの《場》として把握出来ない出演者が、様々に空間に出す波動が悪影響を造りだし、全体性が起きない現場の、失敗のよい例であった。
ましてや、サッカー場の一体感には、更にほど遠い。
たったの22人で、あの広い空間を《場》に仕上げる。
その上で天から《円》をおろす。
その全ての自然界を意識したとき、己がゼロ化する。
それこそが《個》であると僕は信じている。
自分を自分が感じているときは、器の自分しか感じられていない。
ミトコンドリア全てと対話する。
そんぶんと同じ分量が外の世界に充満している。
観ていないだけ。
僕は、一度だけ観た岩手の獅子躍りに、イヌイットの鯨と海への讃歌としての老婆の躍りを観たときに、ホピの躍りを観たときに、小さい頃何度か観た、アイヌの熊おくりの躍りを含む儀式を、体の中から思い出した。
それは、全て《場としての平面》に見事に天である《円》をおろしていた。
だから聴衆が引き込まれる。
それは、主体も客体も越えたものになる。
その時客体は、客ではなく、主体の一部になる。
サッカー場で、その外の街角で、テレビの前で、それは、客体を越えでた一つの大きな波動になる。
流石にサポーター制度を元にサッカーをここまで世界中のスポーツに育てた、ヨーロッパは、賢い。
僕は、何故伏流水に、このサポーター制度を導入したかは、それが理由です。
そして先ずは、ここに一つのムーブメントが起きたら、日本中の山に伏流水を通してサポーター制度を導入。
そして、お山の美しさ、お水の更なる磨かれかた美味しさ、そのコミューンの面白さ、深さを競い会う事で、競い会う祭りで、如何に普段きちんと個が先ず世界全てと関わり生きるかが、結果に出る《場》が出来たときに、人間の世界に《えん》は円、縁、宴となって降りてくる。
もう、《自然=ほっといても変わらないもの》ではない。
アイキの保江先生が仰るように、愛とは、興味関心を持つこと。
愛するためには、環境として見ている限りは、偏った教育者的な目線をやめないと。
そうやって、愛せたときに、はじめて先住民と同じレベルの、自然界への愛が溢れる躍りが生まれる。
振り付けは、ある意味、何でもよい。
型も振り付けも、愛を学ぶ例題でしかない。
さーて今日は愛の草刈り、愛の薪割りに、汗を流し、その足で花と桜の散歩に行きます。
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