新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞
昨日は、四日ぶりのキアスム構造の地点里山で思考と形の一致がおきて、大分スッキリとした方向性を身体が把握できました。
昨日のblogにのせた、Y字の図式がまさにそれで、それはカヤックのパドリングとも同じものでした。
そして、伏流水が無意識の構造の地表の奥から涌き出る姿も、そのものです。
深く入りすぎると、僕らの現実には現れてこない。
僕のやろうとしていることでは、結果現実世界に抽出されないで、空想で終わってしまう。
けれども、それを現実化出来ている結果を出せる天才は、ズット三次元直ぐの地下にある、点線のタオを見れている。
ワールドカップの予選で来日の、香川選手の眼差しは、点線を見ていました。
このシステムを、世に出すには想いだけでも駄目。
三次元のグローバル資本主義の世界では、迷惑な存在にも関わらず、上手にサーフィンのチューブのような点線を行きながら、調度良い出場所から三次元に現れて来なくてはなりません。
それは波の上にいるものにとっては、突如現れたような錯覚を覚えますが、アンダーグラウンドでは、緻密な動きのもとに出現させたモノ。
だからこそ、天才は再現が出来る。
それを三次元では、勘と言っているけれども、実は右脳で、完全に左脳世界を把握しながら抽出したもので、それには心の強さが試される。
早すぎても×。
遅すぎても×。
そのいつかを待てる感覚は、狩猟に共通する部分が秘められている。
その、一瞬の時を待てる心の強さ。
大体が時期を取り違えて、破滅に自ら沈没する。
自分の軌跡にはそれが見事に現れている。
成田のSさんは、長い間の人生の過程で、見事に出し惜しみ出来る大人の感性をお持ちだ。
プランや想いはついつい言いたいモノ。
アイデアもしかり。
けれども左脳は、言ってしまうと満足する癖を持っている。
だからつねに右脳でアーとかウーとか言いながら、点線で翻訳されるのを待つ。
アーとかウーとか言っている時のアスペルガー的な思考は、ある意味未来の思考。
けれども、それをもっともっと破滅の谷底をみながら、Y字の真ん中の点線から糸をたらして、点線まで引き上げ、変換できるチャンスが到来するまで、サーフィンのチューブを進み続けなくてはならないが、心が折れそうになるものだ。
そのときにこそ、心の強さが必要だ。
手に幹を持っていなかった頃弱さとは、全く違う。
幹である軸を持っていないときは、実は左脳が不安がっているだけ。
右脳で感じる不安には、危うさを楽しめる不安がある。
けれども、そこに左脳が介入してくると、待つことに耐えられなく、幹のない手の内を表明してしまう。
誰かに告げるとか、このようにネット上に公開するということではなく、表明しながら点線を更に進んでいれば、表明しながら待っていることになる。
左脳では、立ち止まることが待つことであるが、右脳では全く違う。
一昨々日の名古屋での武術ワークで言えば、直線攻撃が来てから、円運動をしても遅いのである。
だからつねに、立体捻れ交差(キアスム)構造のメビウス運動が脳ではおき続けていなくては、不可能です。
それがメビウスの輪が交差する点が連なった、点線である。
実は、スピードが上がるほどに、脳はこの状態になる。
大田区の頃に、レーサーに指導して、自分でも感じたく、富士スピードウエイで250キロ出したときに、チータ〜がそうやって、獲物をおっているのがわかったのです。
今の明解に見えている感覚とは、全く違う掴めそうで掴めない感覚ではありましたが。
うちにいる、マンチカンの幹大くんの走り方もまさにこれ。
直線の犬たちとは全く違う。
スピード出して止まるときに、捻るけれども、捻れ交差の連続にある点の繋がりを、彼は疾走するから、捻って止まれる。
そうでないと、三次元空間にジャンプして戻ることは、結果を抽出することは、不可能である。
結果、どんな精密なプランも、点線上に流されて、いつのまにか零に飲まれて、夢物語で終わる。
だからこそ、点線上に繋がらないものは、勇気を持って思考から捨てなくてはならないが、執着が邪魔をする。
その点線が、結果軸を創る。
広葉樹はまさにこのように成長している。
この仕組みから、三次元空間に創造を現実化しているのが、枝振りだろう。
枝は切られると、次の可能性を又メビウスの輪での連続性の運動のなかで、外周に点を繋いで年輪上に周回を繰り返しながら、結果の螺旋を創っていく。
ただの螺旋とはわけが違う。
そうなると、「動きは螺旋で出来ている」なんて事はそうそう言えなくなる。
ましてや、自分は直線に思考しやすいも同じだ。
何故なら、直線も螺旋も、キアスム構造のメビウス輪が基本にあってはじめて、成り立っていたからだ。
直線の前にある捻れ八の字。
輪の前にある捻れ八の字。
僕が自分の動きに起きた疑問符は、線形を創る、円形を創る以前の、思考である。
それが、線形あ始まる弥生から、円形を創る縄文にまでさかのぼり、更にそれを創っていたキアスム構造の八の字に帰着出来たときに、それが野生の思考であった。
わかったは良いが区分わけされている面構造で暮らしては、無理と東京を離れた。
都市構造思考を離れた。
途方にくれるアップダウンがある敷地に、道を見いだす思考を手に入れたかった。
決して、植芝盛平大先生は、武術で身に付けたのではないと確信した。
北海道の開拓で身に付けたはずだと。
野生の思考が創る野生の科学。
それでつくられる、新たな人間の世界。
アラエビスのプランが点線の末に消滅するか、幹の先にもうひとつの小さなメビウスの輪の連なりが作り出す、枝振りを三次元に生やせるか、この六月で全ては決まる。
その為には、更に強い心が要求される。
枝を出して大丈夫か?
常に問い続けるから、育つ自然の摂理。
約一年前、安易に枝をだして見事に、自然淘汰された事から学んだのは、自分の奥底ではない。
無意識を、見つめても何も変わらない。
最後は底なし沼に落ちる。
あるのだと、広大な底なし沼があると知り、そこからひとつの何かを抽出出来たら、それを絶え間なく表現していく、アートな体感を積むこと。
それを使って、魂のミッションを現実化するには、アートな体験が少なすぎる。
けれども、今さら幼稚園教育からやり直す時間はない。
ならば、日常の生活で表現して場数を増やすしかない。
それが出来るのが、里山だ。
ここでは、架空の講演会もワークも勉強会もいらない。
全てを実験場にする気になりさえすれば。
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