新しき蝦夷 銀河縄文原人が創る 皇の時代の宇宙国建国までの舞
さて分かりやすい変化、人間関係から、祖の時代と皇の時代を比べてみましょう。
祖の時代は、
1親
2兄弟
3親戚
4子供
5夫婦(自分)
6友人
7他人(無縁)
此れが大きく変わります。
勿論兆候は現れています。
皇の時代は、
1自分(夫婦)
2友人
3子供
4無縁
5親
6親戚
7兄弟
もう全然違いますね。
夫婦なか悪く、子供に生き甲斐を求め、価値を押し付けるは、無くなるのです。
そして、親兄弟よりも、無縁を大事にして、目的で動くのではない、ボランテイア等の作業に従事して、満足を得る時代ですね。
子供よりも、それを外枠で支える、友人を大事にする。
子供は伸び伸び育ちます。
いがいに、親との行動はウザいもの。
即ち依存性を、含んでいますね。
それのさきにこそ、成長がいる。
価値の一致が良い家族ではなく、価値の多様化が重要。
その代わり、夫婦は、価値が一致して、それが満たされるから、良い意味で子供や友人関係に依存しない。
価値の一致とは趣味が共通とかではなく、本当に自分に正直に生きているかという、生きる価値観の一致です。
本当の魂が求めていることには、壁が立ちはだかる。
それを越えることにストレスがない。
それを使命と呼びたいけれども、言葉的にはとっても重苦しい。
昨日の埼玉ワークは、凹凸に移動する《場》に、如何に自分をのせていくかでした。
それを感覚器官が造り出す、正三角形四面の二個のピラミッドを、上下に組み合わせて、キュービックのように、動かしていく腸思考の立体六芒星による、早い動きでも、一緒の間と言う《場》が存在し続ける動きへのイザナイでした。
此れは脳思考が停止したときにしか、出来ません。
思考が停止したときにこそ、腸が思考するに、移行しています。
この移行期一番大事なのは、心体装置の当たり前の、大転換です。
とっても身に付くまでは、戸惑います。
脳がプラーナを食べて、腸が思考するのですから。
食べ物も、エネルギーを取り入れると言うよりも、遺伝子情報を取り入れる。
当然、農薬の作物は、僕らにも安易に薬を飲ませるように、仕向けていきます。
頭で考えての自然治癒力ではなく、それぐらいなら勝手に体が治すよ!と言い出す、腸が唯一持っている思考に心体を委ねてみる。
あすこがセールだから、買っとこうかではなく、それを心体が求めて、気持ちよく感じている。
例えば、服はひとつの心体の今を表現する、重要なアイテムです。
だから、着替える。
僕で言えば、最近一昨年から去年前半お世話になった《セオリー》が何故か似合わなくなってしまった。
山形では、野良着と法被。
もうこれは、生涯定番かな。
しかし、都会にいるときに、この画一された平面化の世界では、魂に嘘をついて人に従って自分を隠していた頃の《セオリー》では、似合わなくなってしまった。
セオリーの意味は、理論、学説、手法。
不思議だなって思うのです。
その頃は、上手く伏流水を動かすために、理論、手法を探していた。
ヤッパリ脳思考で生きていた。
それが腸思考になった瞬間、もう似合わない。
心体が零化されてしまったのでしょうね。
これは、零化する、伏流水を飲み続けたお陰でした。
田んぼに伏流水が流れている頃までは、米の祖から引き継いだ遺伝子の記憶さえも一度水に流せ、今と言う新しい年の態勢を米が先取りして、身に付けていた。
これを食べていたから、自然に食から今年流行る病気の情報を腸思考から取り入れ、心体に今年の心体への新しい情報を伝え、拓かれていないDNAにスイッチをいれていた。
結果、免疫力が、上がる。
だから、食べ物の好みが変わったり、食事の回数が変わったり、ランダムになったり、似合う服の種類が変わったり、友達が変わったり、職が変わったりとは、その現れのひとつ。
後は、如何にそれに自然に従ってスッキリと、新しい自分で生きるかだと、感じます。
この時代の移行期に、自分の回りにどれ程の変化を取り入れたか?
世の中もドンドン変わっている。
銀河も2500年の夜が明けて、次の2500年の昼に入ったのに、未だにパジャマ来て暗闇に様々な本心を隠していませんか。
自分を着替えると、外の世界は自動的にそう入れ換えを余儀なくされる。
その意味では、泉郷で、しっくり来る、野良着に法被は、泉郷の自然界は、全くもって自分の力で毎年零化した上で、今年も同じものを供給してくれている証拠なのでしょう。
僕のバロメーターは此なので、富士山はこの格好に似合わないのです。
伊豆にすんでいるときに、よく来ていたmont-bellが似合う場所。
でも野生動物や野生植物が沢山ある泉郷では、野良着に法被がピッタリ来る。
あえて大工仕事しよう、あえて自然界を感じよう、あえて山歩きをしようとしなくても、それをすることが当たり前の毎日に含まれている。
だから、《場》として家から山を観るとき、借景ではなく、一体なのです。
犬と散歩しながら、端山から麓の我が家を観るときも、お山の一部なのです。
その時、猿の目線と同じ自分が居たりする。
猿の記憶のDNAにスイッチが入る。
自然に、《場》に対して、俯瞰した所にたち位置があるのです。
埼玉のヒローイ平面の田んぼの風景には、東京よりも良いのですが、ヤッパリ何処にいても人間目線しか、存在していない。
けれども、此れがわかると、渋谷の交差点で、泉郷の猿や熊やカモシカとして、そこに立つことが出来るのです。
この達人が、敬愛する宮沢賢治さんや星野道夫さんや山岡鉄舟さんなのかなって、感じるのです。
そうやって、放射能や津波の後、針葉樹の土砂崩れ、捨て犬のガス室送り、アベノミクスの例えば女性の更なるグローバル資本主義への参加を則す待機児童への策に見えるアベノリスク、アメリカのテロなんかを、腸の視線で見続けると何処か笑える。
俺たちは何をしていたのって。
例えば昨日埼玉から北千住まで、先頭車両で、高架の上に続く線路を見ていたのですが、フッとある光景がよぎったのです。
ここをアラスカのカリブーが一万頭の群れで、突然通過したとき人間は、時間通りに目的地に行けないとか、相当の文句を鉄道職員に詰め寄るのだろうなって。
それぐらい、今の僕らは、多面的な層を数学の一次産業化をするように、俯瞰して、本当の今と言う事実を、感じることさえ出なくなってしまったのだなって。
けれどの、昼の時代に移行して、そのような事だって、いつ起きたって可笑しくない。
僕らは時間さえも平面化してしまったのですね。
だからヨーロッパの都市やせめて京都のように、時代が混在した風景を出来れば凹凸で所有していなくては、僕らは勘違いをしてしまい、突然層が違う今が何層にもなって今があるって、見えてる世界を見ていなくては、もう生きていけないのでしょうね。
ヤッパリそのためには、色々もっともっと楽しんで着替えなくっちゃって、思うのでした。
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