太陽の光は、無限の拡がりを持つ一元的なものまさに”天”なのです【今日のワークのレジュメ】
今日のワークのレジュメ。
アストラル体に種があると言う認識からそこから肉体を観ると言う昨日のワーク。
種の認識概念は、勿論在来種的なモノ。
モンサントではいけない。
今生使わない未来の種を作る為に、今生が存在し未来に撒く生命力の種を創る方向に行けば行くほど今生の実は甘くなり、綺麗な華を結果つけると言うモノを種と意識する。
思考体の頭部=内部が地球外部に思考力としての惑星の月、
感情体の胸部=心臓、そして肚の自我体は四肢と言う概念。
そして四肢が火星金星水星木星土星で動かす。
兎に角気をつけなくてはならないのが、僕らの幼稚な唯物意識。
今それに合わせて太陽=光と認識させていますが、
本来地球は点意識ですがそれも僕らの知ってる慣れ親しんだ点ではないと言う事。
ここで言う太陽の光は、無限の拡がりを持つ一元的なものまさに【天】なのです。
そして点は天に通じます。
心臓の中に消えゆくほどの点に近づくほどに天に=太陽に通じるのです。
地が血であるように、天は最小の点に通じるのです。
これがクラインの壺の入れ子状態の定説に繋がるのです。
<ジョージ・アダムス『エーテル空間』からの引用>
このような考え方を平面に適用すれば、平面の縁は、物質空間の無限遠においては “ 無限大の円 ” ではなく、ひとつの直線であることが分かります。
さらに空間全体に関しては、空間は“無限遠のもの”として“無限大の球”ではなく、 ひとつの平面を持つことが明らかになります。
重要なのは、この空間の無限遠は私たちが物質空間で慣れ親しんでいる二元性には分極化されていない、という認識です。
円と球はどちらも直径両端の一対の点に分極化されています。
しかしこの分極性は、無限の世界においては 再び一元性へと収斂します。
そしてこのことを認識してこそ私たちは、空間を自足したもの、有機的なものとして体験し得るようになるのであり、地球的ー物質的な相からエーテル的な相への、真の移行を見出し得るようになるのです。
<ジョージ・アダムス『エーテル空間』からの引用>
かつてルドルフ・シュタイナーが語ったように、私たちは内包的なものを外延的に、外延的なものを内包的に体験 することができなければなりません。
ここではこのことこそが重要なのです。外延的なものを内包的に体験すること、 それは平面を一元的な全体として体験することです。
また、内包的なものを外延的に体験すること、それは構成され ているものとしての点を体験することです。
点を構成する要素とは何なのでしょうか?
それは点を通り抜けていくすべての平面です。
平面が点に分割すること ができるように、点もまた平面に分節することができます。
平面が無数の点から成る無限の有機体として現れるよう に、(...)空間のなかのひとつの点は、無数の平面から成るひとつの有機体として現れます。
物質的な空間意識は、“ 全体は部分よりも大きい ” と主張します。これはたとえば、平面は点に分割される、とい うことに当たります。
しかしエーテル的な世界では、これとまったく反対のことが言えるのです。 つまりそこでは、全体はその部分に対して最大のものではなく、反対に最小のものなのです。
<ジョージ・アダムス『エーテル空間』からの引用>
平面像への拡張と点への収縮とのこのリズミカルな入れ替わりのなかで、私たちはありとあらゆる変容(メタモル フォーゼ)形態をつくり出します。
一種の幾何学的高昇とも言い得るこのようなやり方を通して、
私たちは与えられた形態をメタモルフォーゼさせるばかりでなく、
新しい形態をつくり出すこともできます。このリズムの内には、 空間的創造への可能性が潜んでいます。私たちは空間のこの原理念のなかに、宇宙進化の内にあるあるひとつの圧倒 的な対極性を体験します。
“ 種子と像 ”、それがこの対極性の名称です。
人間のあり方もこのような意味で分節されています。この対極性は、過去と未来、宇宙の死と復活に関連しています。
人間は自身のあり方の内にこの両極を潜ませています。
私たちは私たちの頭部の内にかつての宇宙像を埋め込んでいて、
その最後の残像を思考の内で見ているのです。
私たちは私たちの意志の内、四肢が内的に形成するものの内で、
宇宙の種子を未来へ向けて運んでいます。
過去からつくり出された私たちのあり方の内には、宇宙の原像が潜んでいます。
私たちはいまもなお、宇宙の原像の最後の影を、
天球に拡がる星座の内に見ています。空間の無限周縁に発す る宇宙の原像が、人間存在の内、人間の自我の内に死ぬ。
これが、私たち人間の頭部形成の秘密です。
しかし宇宙の 原像は、私たちの意志の領域に蘇ります。
さて遂に身体ワークがここに駒を進めるのです。
東出融