あらえびすブログ

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内田樹さんの本から素晴らしい内容を

[わけのわからない現象」に夢中になれるか

 どの分野でも、最先端で仕事をしている人というのは、若い人も年取った人も、マインドセットは似ています。
自説に合致する話、自説を補強する事例にはあまり興味がなくて、「うまく説明できないこと」に興味がある。
目の前に登場してきた「わけのわからない」現象を貫く法則性を発見しよとするときに、彼らはほんとうにうれしそうな顔をする。
手持ちの法則が「あれ」にも「あれ」にも何もでも妥当するという話ではなくて、新しい法則が発見できそうだというときに夢中になる。

 自然は「わけのわからない現象」の宝庫です。
当たり前のことですが、人間社会の方が自然よりずっと人工的です。
ずっと構築的で、ずっと合理的で、だから、「わけがわかる」。
ただ、それは脳がこしらえたものに限ります。人間は脳だけじゃない。身体という自然物を持っている。人間の身体を相手にする自然科学は医学です。
だから、お医者さんと話をするのは、とても面白い。

 最近よくお会いするお医者さんに、神戸大学医学部の岩田健太郎さんという方がいらっしゃいます。
感染症の専門家で、一昨年の新型インフルエンザのときに、パンデミックの一番最前線にいた方なんです。
彼からずいぶんいろいろな話を聞きましたが、いちばん印象的だったのは彼が「なまもの」を相手にしている商売なので、人間に対する対応がいわゆる知識人とは全然違うことでした。
僕がどんな話をしても、「そうですね」と頷くんですよね。絶対否定しない。
相当に変なことを言っても「うーん、そうですね」と頷いて、それから考える。
決して「おっしゃっていることの意味がわかりません」とか「あなたは間違っている」とかは言わないんです。
だって、僕が彼の前にいて、現にその言葉を発したという事実がある以上、それには何か意味があるはずだし、僕が間違ったことを言っていたとしても、「間違ったことを言っている男がここに存在する」という事実は否定できない。
自然科学者はその意味を考えるわけです。
「なぜこの男はこのような意味不明のこと、あるいは明らかに誤りであることを言うのか」というふうに考える。
医療のフロントラインに立っている人間としては、たしかにそれが当然なんです。
患者がやってきて症状を訴えたときに「何を言っているのかわかりません」とか「あなたは間違っている」とかいう診断はありえないからです。
まず症状を一個の自然物としてそのまま受け容れる。
そして、その中からとりあえず他の症例との類推が効きそうなパターンを探す。
どのような身体現象も否定しない。まずありのままを受け容れる。
それから知性を最高速で回転させて無数の仮説を検証していく。
僕は岩田先生と話していて、これは本当に現場の人だなと思いました。


危機的局面であるほど上機嫌であれ

 現にそこに患者がいる。教科書にはこんな症例は出ていなかったという理由で診療拒否することはできない。
とにかく診断を下して、治療行為にとりかからなければならない。
そのためには自分の知的身体的なパフォーマンスを最高レベルに維持しなければならない。
そして、判断力や理解力を最大化するためには方法は一つしかないんです。

 それは「上機嫌でいる」ということです。
にこやかに微笑んでいる状態が、目の前にある現実をオープンマインドでありのままに受け容れる開放的な状態、それが一番頭の回転がよくなるときなんです。
最高度まで頭の回転を上げなければ対処できない危機的局面に遭遇した経験のある人なら、どうすれば自分の知性機能が向上するか、そのやり方を経験的に知っているはずなんです。
悲しんだり、怒ったり、恨んだり、焦ったり、というような精神状態では知的なパフォーマンスは向上しない。
いつもと同じくらいまでは頭が働くかも知れないけれど、感情的になっている限り、とくにネガティブは感情にとらえられている限り、自分の限界を超えて頭が回転するということは起こりません。

 真に危機的な状況に投じられ、自分の知的ポテンシャルを総動員しなければ生き延びられないというところまで追い詰められたら、人間はにっこり笑うはずなんです。
それが一番頭の回転がよくなる状態だから。
上機嫌になる、オープンマインドになるというのは精神理論的な教訓じゃないんです。
追い詰められた生物が採用する、生き延びるための必死の戦略なんです。

 医療の現場は待ったなしです。
「最高最適のの医療をこれからご用意しますからちょっと待っててください」と言っているうちに患者が死んでしまうということだってある。
今そこにある疾病という現実に対して、手持ちの材料で、手持ちの人員、手持ちの情報、手持ちの時間で対処しなければならない。

 これをレヴィ=ストロースは「ブリコラージュ」と呼びました。
「ありものの使い回しで急場をしのぐ」ことです。
医療とはその意味ではブリコラージュそのものです。
だから、焼酎で傷口を消毒し、ホッチキスで傷口を縫合し、ガムテープと棒で副え木を作るというようなことは朝飯前なわけです。
手元にある資源は全部使うことをつねに訓練されている。
目の前にあるものの潜在可能性をつねに考量している。
「これは何に使えるだろう?」ということをいつも考えている。
だから岩田先生は僕の話を聴きながら、たぶん「この男はいったい医学的にはどんな潜在有用性があるのだろう?」ということをいつも無意識には考えているはずです。