愛媛県松山でのお話し会、参加人数少なかったけれども、確かな人々と大きな繋がりになるスタートを。
前日の香川の山奥で、九本のフィボナッチ数列の広葉樹が見つかりました。
此れは、元々素晴らしい山であった証。
後はブナ水で水あわせして、木にフルボ酸鉄を与え必要のない植林の杉を伐ってあげる。
全ての太陽系が全ての所属する銀河のレコード版で、太陽の軌跡を追うように、木も太陽を追いかける。
その為には、常磁力性の鉄を持ち上げた結果の岩が必要になる。
それを人為的に運んだのが、岩倉だよ。
それが自然界では【金】の役割。
いつの間にか、人類の見栄の証に。
錬金術も自然界の摂理を、人類が知っただけ。
様々な農法も身体操作法も。
【法】は地球の原理原則。
しかし後付けで知った原理原則と、元々あった原理原則を知ることは全く違う。
元々あるのだから、「有り難う」といって頂くならば、地球の環境はこうはなっていない。
地球の宇宙の仕組みまで搾取したんだから、その元々への感謝を持てる人類を地球は待っている。
今、それに気付いた方々は、アラエビスが提供する生きた水とミャクソンさんのoliveオイルで、再会する度に全く違う自分を感じだしています。
それを、香川でも徳島でも強く感じました。
何の為に取り込むかが一番重要。
体の為には自我。
だって原理原則の水やオイルなんだから、調子良くなるは当たり前。
それよりも、沢山の地球の原理原則の情報を、自分の思考の原理原則にしてと、大日如来の大不思議の原理原則は望んでいる。
与えられているのだから、解明じゃなく、その上で楽しめと言っている。
その時から、原理原則ではなくなる。
原理原則のうちは、参加していない。
いるでしょうそういう面倒な旧態依然の人類。
せっかく美味しいモノを頂いてるのに、食材や栄養学を説く人。
何回輪廻転生しても、結果、熊楠が言った原理原則を創造した大日如来の大不思議は、解明出来ない。
ならば、大日如来の大不思議の、醍醐味を感謝して味わうだけで、人類の役割は全うしているのですよと、熊楠は言っている。
熊楠は、その感謝して味わう事を、学問に出来た最初の人類。
未だに、世界中の【知】が、彼に追い付いていないのです。
大日如来の大不思議が、人類の知のありようとして示した、学問に唯一行き着いた熊楠。
それは、その大不思議を、観察し続けること。
【分かる】からの、卒業。
分かるは主体が自分になってる言葉。
その時から、所作は右か左に傾く。
身体ワークも同じで、分かるからの卒業を則すのみ。
決して教えてはならない。
何処まで行っても、大日如来の大不思議は永遠の渦の中で、生きている。
だからそれは例えるならば、【命】としか総称出来ない。
けれども、その大不思議が、一番僕らを支えている。
熊楠は、原理原則を説いたのではなく、ただただ大日如来の大不思議の中で素直に生きる思考を探し求め、それこそが人類の学問ではないかと、それを探求したのです。
僕、東出融もアラエビスも、熊楠という太陽を追いかけ、いつか自らが太陽として生きたいのです。