仮相人類から、実相人類への移行。
ダーチュニック=蝦夷的ダーチュニック=新夷(あらえびす)
日本の地を与えられ、自ら選び、この世に生まれた民である我々は、この地の浄化の為に生を受けたはず。
それは、イルミナテイVS庶民をいきる事ではないし、庶民同士が着目点の違いで仲違いする事を生きることでもない。
僕らのこの活動にも、実相を知らずに誹謗中傷は沢山ある。
けれども、その勢力と争っても、決して幸せ感は、心に生まれない。
きっと、負かしてやったと鼓舞する、誹謗中傷側にも、幸せ感は訪れない。
人類の実相は、もっともっと先にある、柔らかくて温かくて、全てを丸ーく理解できる姿として、はっきり存在している。
生まれたての赤ちゃんが、何か自分の存在を、自分に他者に示すために否定系から思考しないように。
それを、生きながらに取り戻し、全ての他者の角が取れる場を、必ず想像して創造する力を、我々人類は生まれたときから与えられている。
ならば、向かう先は自分の可能性のみで、仲違いではない。
この移行期には、誰もがイデオロギー的な場を通過せざるおえないけれども、そこで囚われて止まるか否かは、自分で決めるしかない。
それが二項対立思考社会からの、唯一の脱出の扉。
そして、いつも開いている。
いつでも、心が決まれば、向こうへ行ける。
だけれども扉を越える事が怖いのは、否定系から始まるアイデンティティーを、自分だって勘違いしているからで、否定系の鎧を脱いだときに、それだけで実は凄い幸福感が自分を包む。
鎧を脱いだら、直ぐにこんなにも身が軽くて、未来への開かれた可能性を感じる事は、他者に期待している限り、味わう事は出来ないだろう。
理論武装して論破しても、一時期は負かしたと自由な気持ちになるかも知れないけれども、相手は又々その上に現れる。
陰謀もスピリチュアルも今は、この途中の今で、満足してしまっているように見受けられる。
でも、求めたらキリがないのが、本当のスピリチュアル。
そこには、敵など存在していなくて、唯一の敵は、この辺で良いだろうというツイツイ時間を停める自分なだけ。
コレが仮相の自分なのではないか。
アナスタシア二巻目に出てくる、
人間が、私たち地球的な存在の本質をゆるやかに理解していく、移行のプロセスが、ダーチュニックだと信じている。
仮相にまだまだ生きている人類は、「アナスタシアは実在するのですか?それともあなたが創りあげたのでしょうか」と、そういう質問をするが実相を既に生きている人類は、そのよ うな質問はしない。
コレがまさに、イデオロギー思考がない状態だからこそでは、なだろうか。
アナスタシア二巻目に出てくる、ウラジーミルのこの言葉も深い。
アナスタシアは、具体的な行動を起こしていると言うことですね。彼女の意識のイメージを現実化しようと努めているのに、我々はここでただスピリチュアルを論じている。まるで鼻 垂れ小僧のようですね。
僕にも、まだまだイデオロギー思考の残骸があるからこそ、誹謗中傷がやって来るだけ。
その意味では、本当にありがとうです。
しかし、それが一切なくなるときに、遂に僕も仮相から実相へと、駒を進めたのでしょうね。
だからこそ、オフラインあってのオンラインに拘ってきたのですから。
そして、水汲みから出荷まで、一番自然界的には過酷な時期が始まりますが、この冬の深雪に包まれて汲みに行く行為が、更に僕を仮相から実相へと育ててくれます。
冬の水汲みは、まさにスピリチュアルです。
論じる必要など一切ない、実相のスピリチュアルです。
そのお山と汲み手と送り手の生命力のコラボが、生きた水と呼びたい所以です。
その力は、必ず遠いサポーターさんにも届き、サポーターさんをゆるやかに仮相から実相へと移行させてくれると、強く信じているのです。
お山の冬の、今年の水汲みも、実況中継しますね。
視覚からも、息づかいを通しての聴覚からも、生命エネルギーは必ず皆様に届くと、これは確信しているからです。
冬にこそ、是非とも、来てけらっしゃい!