あらえびすブログ

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明日はウルフprojectについてスターピープルさんの取材です

無意識の中で僕が、意識したいのは、まだまだ地球人類が、地球の自然界そのモノと呼応して生きていたころの、自分の原型です。

ワザワザ山形アラエビスに一泊で、取材にお越しになって下さるので、出来る限り野性からのスピリチュアルの便りを、地球人類が感じる様々な企画を通して、このお山という子宮が人びとが信じる限り、生み出されるであろう様々な可能性を、お話させて頂きたいと思います。

言語的な、理屈を超えた可能性を、星は持っていると信じるのです。

インディアンを、ウランを人類が悪用しないように、地球に配置していたように、日本人がもう一度地球と呼応するならば人類が考えるブリードではなく、その時が戻るならばお伽噺的ですが、日本のお山が、日本大神を自然界にもう一度生み出すと信じているのです。

そのお山にスイッチを入れる為に、北極大神のサンやアシタカのウルフパトロールが存在していると、僕は思っています。

即ち、北極大神の血をひく、サンやアシタカをお山に離すのではなく、即ち、植林ではなく環境が整うと自然に広葉樹が復活するように、他の生き物がウルフ復活を準備出来たならばその土地に必要な命が、必ずや復活していくと。

だからアラエビスは、お山自身に大神を思い出させるきっかけを、伏流水を汲み上げ皆様にお届けしながら、ウルフと探っているのです。

お山という子宮と人類が、古代から神話のように呼応する為の、仲人のお仕事を他地域に残る大神から授かった命に託して、今の活動の背骨にしているのです。

アートテンテクノロジーも木村先生のイヤシロチも、僕らには理屈は先ずは抜きにして、実際に試して理由はわからなくても実際にお山内の命の連鎖が調和していった現象にこそ、カミハカライをスピリチュアルを見ています。

それが、ウルフを飼った理由でもあります。

猛禽類も、山形ではハクトウワシが絶滅になっていますが、人類が翼あるモノを意識した時に、東北の山にも戻って来るのだと信じているのです。

僕にとっては、それが祈りの在り方です。

絶滅したはずのハクトウワシを沢山観察している猟師さんも実際いらして、僕は人類がもう一度自然界のお膝元で分け合いながら生きて、本気の自然界への畏敬の念や畏怖の念を身につければ、必ずやもう一度自然界は、僕らに僕らの未来に答えて下さると信じています。

海と言う女性性の母体が、地球の子宮であるお山を復活させる力は、未だに衰えてなんかいなくて、我々の準備だけが整っていないのではないかと感じているのです。

今、お山は、魂が戻りだしています。

まさに映画アバターのEIWAに繋がるpowerです。

後は、人類が奢らずに、そのpowerこそを見続ける時です。

人工地震があるか、ないかよりも大事な事は、地球への信頼です。

例え支配者が、人工地震を作れ実際に起きていたとしても、それを作る側にも陰謀と処理する側にも、最大に欠けているのは、それさえも阻止するのは海であり山であり地球なんだという事じゃないかな。

僕らは、その地球を心底信じる愛の塊で、この地球を選んで来たはず。

僕らが、地球が生み出す全ての命の原型に必ずある愛と呼応するならば、必ず地球は応えて下さるはず。

今の短絡的な思考を捨てたら、地球が必要な時には、太陽が現れ、雨を運び、雪をもたらし、この偉大なる雪を溶かすように。

全ては、水の如く浄化します。

イルミナティさんさえも。

怒りは、水の流れを停める。

そして、怒りがあなた自身を腐らす。

雪や雨にいつまでも熱く照らす太陽に文句を言っても、彼は僕らを見捨ても貶しもしない。

身近な一年の間には、我々を困らす、枯れ梅雨やら大雪がある。

だけど、所詮新参モノの人類に、彼らのナガーイスパンの様々の意思を、知ることは出来ずに感じるのみ。

そんな謙虚な科学は大好きですが、人類側の都合の科学や論理的な解釈には、蝦夷や青森海洋民族のDNAをもつモノには、何処か逆に嘘に思えてしまうのです。

感じるのみで生きているのです。

取り戻すだって、奢りです。

だけど、もしも地球が僕らを必要としていれば、必要とする人類やウルフや今では絶滅した植物も、必ず戻ってくるのだし、地球はひたすら鉄に向かっているならば、今は寒冷化に向かうならばその中で命を繋ごうとする生命力が地球と呼応して、我々を次へ運んで下さるはずです。

ですから、木村先生のアッシのせいじゃありやせん!まさにそれです。

地球や宇宙の意思に従っているだけ。

その思考こそが、スピリチュアルであり、地球や宇宙への畏怖や畏敬の念を育て、その感じる力が本当は人類に与えられた、最終言語ではないかと感じさせられているのです。