アラエビスは未来に繋がる、庶民が再度、国や会社や社会全般と縁を取り戻せる半市場経済の雛形を響創
響命は協創であり、共創であります。
ご縁こそが、媒体となって生み出され、一過性では終わらないご縁の連鎖調和が永遠に生み出される場を創作することが、場の登場にはなくて重要です。
場に登り上がって来る。
これが登場です。
だからこそ、切りがないとはわかっていても、常に場の設定を高い志によって、位置を高めて行かなくてはなりません。
しかし今の企業や国や家庭や社会には、縁が抜け落ちているので、即ち無縁になりかけているのでこの逆転論理を、なかなか庶民は体感出来ないでいるのです。
同じ場を、誤魔化しながら、持続させる。
そして場を進化させるために、戦争や病気やそんなものをあえて作ろうなんて思う方々と、そのなかで小さくなって怖がって生きたり、学生運動やヒッピーをベースに今を語るから生まれるスピリチュアルとは、今の若者は一切無縁であることに我々よりも上の存在は気づいていない方々が大半であるが、そんな二種類の輩が一致するのは、自ら場を進化させようとしていないことである。
場が同じだから、品物変えて似非の市場経済や似非の縁を売り物にしてきている。
しかし場を変えるならば、品物に様々な似非の価値観を付加する必要はないのです。
場を終わることなく、毎日毎時間毎分進化できることを、なかなか知らない。
例えば、音楽と農を真剣に融合させたり、祈りと農を真剣に融合させるまで行くには、農業や音楽や祈りというものを対処療法的な今の段階から進化させなくてはなりません。
我々の思考が、進化しよう決めたときに、場は何段階か、登ったのです。
そこに、即ち場にご縁が生まれたのです。
その場を高めるには、矛盾したものを矛盾したままに矛盾なく取り扱う事でしか、その場に登れないばかりか、場自体に意味を持たなくなるのです。
しかし我々は、旧態依然の価値をいつも押し付けられたり、押し付けたりします。
何故なら、場を更新しないからです。
炭素埋設もイヤシロチ化も勿論音楽も踊る意味さえも、場が更新されるが当たり前になると、大家なんて実はいません。
全てが実験で遊びです。
だからこそ進化するのです。
子供の頃は、場を更新して、ドンドン同じゲームを進化させていきましたよね。
放射能も同じですよ。
全部がゲームです。
チャレンジするのみです。
さてアラエビスの次のステップは、糠風呂を営業しはじめます。
まさに木村先生の真骨頂ですね。
アラエビスは全てが遊びから始まり、さらに高い遊びの場から宇宙エネルギーを体感する場に仕上げていくのです。
その実験を今のみんなの家にある、駐車場の二階に冬に作成します。
バーもそこには設置します。
そこで糠風呂やバーでは、全てが蝋燭になります。
その蝋燭はこれ!