災間の思考 ラスト ヨイトリの社会空間に向けて
稲田政調会長の余りに安易な失言は、災間に戦間も加わり、僕が一番心痛める自然界崩壊からの地球崩壊による人類崩壊の間にさえも、発展する。
いつも言うが、国に頼らず、アバンギャルドなアートな思考で、民が立ち上がり新たな自然界も含むネオ縄文雛型を生み出し、実践するしかない。
我々の子供や孫が、生命を繋ぐ為には、自ら決めて国家の上にある、民の自立自律グローバルコミュニティーを作り出すしかない。
今はまだまだ信じがたいだろうが、先に真摯に見つめて来たモノは、市場優先の国家から始めて不戦争や自然界崩壊を防げると、雛型への準備を始めている。
だから、今なら必ず作り出せる。
そして多分そのパイオニアが今、補完し合い、なんか世界はおかしいのではという方々が、そのパイオニアを本気で支援するならば、又々人類が誤る、文明の崩壊を食い止められる。
全ては、個人の意思に託され出した。
さて災間の思考最終回
東日本大震災後の日本は、「絆」という言葉を大量に散布した。
ただだが、「絆」の強調は、むしろそれが空洞化している側面を否定するためにこそ行われたのではないか。
東北の被災地に高い関心が向けられた反面、非被災地の多くの人にとってその関心は早い時期から失われていた。
その中で「ボランティア活動」を行うことに対して、シニカルに捉える空気も終始あった。
非被災地の住民に直接影響のある原発事故の深刻さが明らかになるにつれ、津波被害の問題は急速に忘却されていった。
(東出意見 様々な読みができるけれど、阿弖流為蝦夷解体、明治維新等、日本が作ってきた分断思考の表れだと、感じている。だからこそ、個が自ら分断思考の脱却を決め、魂から見た自分、地球を本気でどうしたいかの全体思考へ飛躍し、やると腹で決めるしかない。まずあからさまに全体を見続け体を使い頭を休めて、心臓思考に移らねばならない。心臓は唯一全体に関係している器官。ハートて物事考え行動するを、司るなは心臓だから。だから、思考とは関係なくドキドキして身体から好きだと解る。それを日常化させていく事で頭よりも心臓脳が発達する。それが腹を決めた後に鍛える器官だ)
そして現在、被災地の瓦礫の受け入れを、放射能汚染の拡散反対という理由で反対する運動が各地で起こっている。
勿論基準値以上の放射能に汚染されたものを徒に拡散させることは許されず、政府が責任をもって封じ込めるしかない。
だが政府や東京電力などへの不信が背景にあるとはいえ、基準値を遥かに下回る、極小的な放射線量の上昇すらも「確率的に」許せないという感覚は、僅かのリスクの可能性も避けようとして福島ナンバーの車を差別する思考と同一平面上にある。
日本がこれほど内的に引き裂かれた事があったのだろうか。
(東出意見 先程も注釈したが出雲人、阿弖流為蝦夷、会津と日本は差別的な思考を根底に持つ。だから己の闇を見続けなくてはならない。)
我々は、3,11によって、経済損失以上に、「絆」と呼ばれている何かをこそ失ったのではないか。
あの日から一年を経過して、なぜ東北の被害者と繋がることが必要なのか、改めて考える。
襞そのもののようなリアス式海岸沿いに位置する陸前高田。
そこで使われる言葉に「ヨイトリ」がある。
お互い様とか持つ持たれつていう意味だ。
今回たまたま筆者を含む非被災地の人々が支援する側だった。
だが、災間期において、その関係性は潜在的には遇優的であり、筆者自身が東北の人々に支援される側になりうる。
非被災地の人々の世界を構成していた環境の断片が「ガレキ」と呼ばれ、その処理をお願いする時が訪れうる。
支援は一方的なものてはない。
時間軸の中で、「ヨイトリ」的な関係へと回収されていく。
ここには[贈与のパドラックス]は生じる余地はない。
支援はわれわれにとってリスクヘッジでもある。
厄災は回帰する。
その時に備えて、少しでも「溜め」や「あわい(間)」や「襞」を つまり[無駄]を社会に埋め込んでおかなくてはならない。
それこそがわれわれ自身と社会を強靭にする。
今回の被災地では、無駄とされていた公共用地が、震災後仮設住宅を作るかけがえのない土地へと、その意味を反転させた。
逆に機能物で充たされた無駄のない土地は、予期せぬ事態に対処できる隙間がない。
忙しい日常の隙間。
一見何の役にもたたないように思えても、被災地に赴き、被災者と関わってくること。
遠野まごころネットワークの菊地新一氏は、地元の人の言葉でもあるとして、「ボランティアは何もしなくてもいいから、ここに来て欲しい」と述べる。
忘れないということは未来に向けて関係を継続させることでもあり、それは今回被災を免れた人々にとってこそ重要だ、
その約束が、「将来の被害者」を導く光となるかもしれない。
東京の人々が東北の微細化と重なり得るということは、将来生じうる可能性のみとしてあるわけではない。
既に構造的なレベルでその現実は進行している。
山内明美は、東北化していると指摘する。
今や東北は日本中に遍在する。
自らを標準と考え、周辺的な例外部分を切り捨てるという二項的な枠組み自体が失効している。
むしろ、周辺化された弱い例外の方を、標準として全体を考える方が現実的になりつつあるのではないだろうか。
繰り返しになるが、障害者に優しい社会でもある。
生活に困難を抱える人々を前提に考える方が、収入が高く安定した世帯を前提に考えるよりも、今やリアリティーがある。
日常的に生み出され続ける構造的な問題に応答し、改善を試み、その過程で溜めや襞を生み出していくことが、次の厄災への備えになる。
三陸の漁師たちが繰り返し来る小さな津波に敏感に対応し続けてきた事で、今回大きな被害を免れたように。
ここまで書いてきたことは、何のロマン主義的な斬新さもない。
むしろこれまで夢想的な主張として、現実の側から笑われてきた類のものである。
主張の内容は、3,11以前からあったものと何一つ変わらない。
災間期になって変化があったとしたら、夢想と現実の位置が入れかわったことだ。
さ様々なリスクを、歪んだ矛盾を抱えたまま、現実を、弥縫し続けることこそが、今や夢想的な態度なのだから、目を覚ましてよい頃だ。
防波堤は既に失われている。