あらえびすブログ

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災間の思考 1収縮する溜め ニューヨークタイムズも心配する今の日本の行く末を転換するには

東日本大震災以降、東北の置かれた地政学的な位置や、貧しさに苦しめられてきたその歴史に焦点が当てられる事が急に多くなった。

しかし貧しさとは何だろうか。

湯浅誠は、貧困を、個人が様々な経済的精神的なゆとり(溜め)を累積的に失った状態と想定する。

この「溜め」概念は、アマルティア センの潜在能力概念のイメージでたち捉えられることがある。

だが、湯浅の「溜め」概念が個人に帰属するものに焦点を当てるのに対し、センの潜在能力アプローチは、障害学でいう社会モデルに近い。

社会モデルとは、障害が個人ではなく社会に帰属していると捉えるものであり、健常者を中心に設計された社会が生み出す障害障壁こそが、多様なニーズを持つ人々無力化された人々にしてしまう。
例えば駅に階段しかない場合、車イスの人は障害者として表象される事になるが、エレベーターがあれば誰の助けを借りずとも電車を利用することができる。

公共施設のエレベーターは全ての人々の潜在能力を引き出す社会資源であり、そのような配慮に充ちた社会を「溜め」がある状態ということができる。

以下では、「溜め」概念を社会モデルの視角で捉えよう。

このように考えると、確かに今回の被災地の多くでは、「溜め」を剥奪され、貧しさを現在進行形で、押しつけられてきた地域だったと言える面がある。

戦後、東北地方の多くの地域は、労働力を都市に送り出す一方、経済発展から取り残されてきた。

第一次産業は国の農業政策に翻弄される中で衰退していき、その他の主要産業も、産業構造の展開の中で生産力を失っていく。

これは地方の全国的な姿でもあるが、そのため、高度経済成長の中で広がる都市地方間格差を縮める事が主要な課題だった。

「地域間の均衡ある発展」を掲げた1962年の全国総合開発計画以降、五回にわたって工業や交通網、観光資源を、東北も含めた各地方に分散させていくことが行われた。

それらは必ずしも地域間格差を十分に改善しなかったが、公共事業は一定の雇用を地方に生み出した。

また、地方交付税収入における地域間の格差を縮める役割を果たしていた。

戦後の転換点である1995年以降、この流れも変わっていく。

1997年の第5次全国総合開発計画では、公共投資による地方開発は、実質的に放棄される。

ネオリベラリズムという政策潮流の中で、都市地方間格差を軽減していた公共事業地方交付税、国庫補助負担金等は削減された。

このような地域を税金で支えていくのは無駄だというわけだ。

代わりに市町村合併という処方箋が与えられ、1999年4月から2011年末までに1500を越える市町村が消えた。

小さな自治体はより大きな自治体へ吸収され、役場は支所化された。

地域福祉の拠点となる、そして災害ボランティアセンターの母体としても期待される、社会福祉協議会も、1999年から2007年までの間に約四割減少した。

地方公務員も削減され、1995年から2008年の間に328万人から290万人に減った。

この流れの中で、いわゆる「限界集落」の数は増加し、病院、介護施設、公共交通機関、商店なども撤退していく。

その結果、高齢者が買い物や病院に行く事が困難な地域も稀ではない。

集落内の繋がりの強さは残された大きな武器だが、限界集落化が進む中で、祭事や冠婚葬祭など共同の営みも難しいところも増えている。

津波が襲った地域の多くは、このような場所だった。

「溜め」として機能する社会資源が無駄なものとして縮減され続けた地域。

さしかし、発災直後から、不眠不休で救援活動にあたってきたのは、現在無駄の象徴と批判される行政職員であり、都市市民的な視線の中で時代錯誤的な存在とされる民生委員や消防団であり、過疎地域での維持コストが高いとされてきた医療従事者、福祉従事者であった。

合併によって周辺化されたような地域では、この矛盾はさらに顕著に表れる。

例えば、宮古市に合併された田老町は、合併前には100人弱の職員がいたが、今回、田老の避難所運営に当たった職員は30人程度に過ぎず、交代も応援もなかった。

宮古市が職員を、中心部に集中させる為に、本庁舎に全員集合待機させられたためである。

田老出身の職員は、「ある意味、僕は見放されたと思っている」と述べている。

また石巻市においても、合併された北上町や雄勝町などについては、しばらく市も状況がつかめずに支援も滞っていた。

北上町では支所の庁舎が海に呑まれ17人の職員が亡くなっていた。

その中で地元の保健師が救援に当たっていたが、合併前に四人いた保健師は、合併で三名に削減され、そのうち一名も津波によって亡くなっていた。

保健師の数は全国的には増加しているが、地域によっては減少している。

まみ宮城県で災害医療に関わっているある医師は「平成の大合併は、地域の自治力を萎えさせ、県の県民に対する生存保障をも危ういものにしている」と指摘している。

「溜め」を制度的に作り出す公的領域が縮減希釈化していく中で、それがカバーする範囲は、標準的とされる部分のみへと切り詰められる。

その「選択と集中」は、必然的に周辺部分の不可視化を伴う。

公的な避難所や半壊した自宅に避難した人々は、時に所在も知られることなく、助け合いながらギリギリの生存を繋いでいた。

その状況はマスコミ好みの心温まる助け合い=「絆」の物語を生み出す。

だがそれが社会権生存権の臨界に花開いていることも忘れてはならない。




収縮する溜めは2日に分けて転載します。
収縮する溜め 明日は「障害者と溜めのある空間」です。


さて今日の内容は、東京でも震災時には更なる孤立を生み出すと、読むか読まないかです。

僕らが今雛型を急いでいるのは、間違いなく一番過酷な被災状況は都市であり、今から張りぼてを修正するマネーも時間も経済停めながらの公共事業は無理だという事。

そして、都市こそからの、疎開大移動が起きる前に、平成の参勤交代で突然の浮いた絆ではなく、今までもこれからも持ちつ持たれつの「よいとり」関係を結ぶ雛型を提示出来るか否かが、アラエビスは試されています。

それも、補助金や紐付きマネーに頼らず、たかだか水されど本当に希少な「生きた水」や「ウルフ味噌」の自然界からの贈り物としての還元で動けるネオ縄文人類への、変身も見事に作り出しています。

迎え入れる限界集落は、又々違う意味で、今までの都市に突きつけられてきた、負を水に流す寛容さが求められますが、これは長い間の歴史によって蓄積した垢ですから、一番の障壁です。

それには、普段から付き合いながら、今まで金にもならない自然界をよくも張り付いて、何れ誰もが必要であると気づき都市と辺境が、地球から任された日本人が共に育て守る、よいとり大地の民に共になっていく環境が必要だと、日々試行錯誤、毎月自転車操業しながらいつか春が来る日を夢みて、明日への日本の任土を僕らの時代で潰れぬように、生きています。

どうか、日本で一ヶ所、自然界の贈り物で社会福祉が成り立つ雛型モデル、皆様が生きた水を飲む事で叶いますので応援協力お願い致します。

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このblog見られて、ウルフ足長おじさんになっても良いと感じる方が、要られたら是非コンタクトして、下さいませ。

アラエビス代表 東出融 080_5139_6127まで。

ラブコールも宮城の知的トム・クルーズ S社長に、。

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東北ではアラエビスだけであり、今兵庫県では県をあげての取り組みに、そして麻布大学では、ブリーダさんと本格的な研究に入ります。
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